ヴェルサイユ体制 Versailles( A.D.1919〜A.D.1936)
第一次世界大戦後、一連の講和条約で形成されたヨーロッパの国際秩序。その維持のために国際連盟が組織された。敗戦国の領土削減・軍備制限が進められ、民族自決の原則の下で東欧・バルカンで独立国がうまれた。また、ソ連の締め出し、戦勝国による植民地維持がはかられた。世界恐慌による混乱や日本、ナチス=ドイツの脱退などで崩壊していった。
ヴェルサイユ体制
第一次世界大戦後、一連の講和条約で形成されたヨーロッパの国際秩序。その維持のために国際連盟が組織された。敗戦国の領土削減・軍備制限が進められ、民族自決の原則の下で東欧・バルカンで独立国がうまれた。また、ソ連の締め出し、戦勝国による植民地維持がはかられた。世界恐慌による混乱や日本、ナチス=ドイツの脱退などで崩壊していった。
二つの世界大戦
第一次世界大戦は帝国主義列強間の対立・緊張関係を背景に勃発し、ヨーロッパを主戦場として、兵員や物資を提供させるかたちで植民地をも巻きこむ大戦争になった。人類が初めて経験する総力戦となり、その惨禍の規模は未曾有なものになったことから、戦後恒常的な平和機関として国際連盟が結成された。
パリ講和会議 ではウィルソンが提唱した「十四カ条」が基本原則とされたが、英・仏は植民地や勢力圏の利害を優先し、ドイツに対して制裁的態度をとった。また対戦中ロシアでは十月革命(十一月革命)が成功して世界最初の社会主義国家が樹立された。これに対し資本主義諸国は軍隊を派遣して干渉したが失敗した。東欧には民族自決の原則が適用されて新興国家が誕生したが、アジア・アフリカ諸地域の独立はまったく無視された。そのため対戦中経済的地位を向上させた民族資本化が主導しつつ、地域によってはコミンテルンの協力もえて、エジプト・インド・中国などで民族運動が高揚し、国内改革を進めつつ、植民地状態からの脱却が試みられた。
ヴェルサイユ体制はその根底に不安定要因を抱えつつも、賠償問題に関してはドーズ案、国際関係に関してはロカルノ条約の締結によって1920年代半ばに一応の安定をみた。アジア方面では対戦中に日本の大陸進出が顕著となり、それに反発する民族運動がおこると、アメリカ合衆国はワシントン会議を開催して、国際協調主義のもと、この地域の利害を調整した。
しかし1929年、ニューヨークのウォール街における株の大暴落を端緒とする世界経済恐慌は資本主義諸国を直撃し、国際的協調体制を崩壊させた。アメリカは広大な国土を背景にニューディール政策を進め、英・仏はブロック経済体制をとってこの危機を乗り越えようとした。それに対して独・伊・日などの後進資本主義諸国は大衆を組織しつつ、統制色の強い全体主義体制を樹立し、植民地の再編成を軍事力をもって解決しようとした。このためヨーロッパでは反ファシズムの抵抗運動が展開され、アジア諸国では独立と解放のための戦いがおこって、世界は再び緊張の渦に巻きこまれ、ついに1939年から第二次世界大戦に突入した。戦争はユダヤ人虐殺・南京虐殺・原爆投下など非戦闘員を巻きこむ大量殺戮を人類にもたらしつつ、連合軍がファシズム諸国に勝利して終結した。
ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
修正主義の台頭
もっとも強硬な修正主義を掲げる国は当然ながらドイツであった。ドイツは講和条約そのものはうけ入れざるをえなかったが、早くから東部国境、とくにポーランドとの国境線を一時的なものとみなし、大戦前の旧国境回復をめざす立場を明らかにしていた。1921年3月、オーバーシュレジエン地域で帰属を決定する住民投票が実施された。過半数を超える6割がドイツ帰属を表明したにもかかわらず、有力な鉱物資源地域を失うことをおそれたポーランド側は武装蜂起で抵抗した。翌年の国際調停の結果、同地域でもっとも重要な炭鉱産出地帯を含む部分がポーランド側に編入された。
この決定はドイツ側の東部国境改定意欲をいっそう刺激した。22年に開催されたヨーロッパ経済復興会議(ジェノヴァ会議)の際、ドイツがヴェルサイユ体制下で疎外されていたソヴィエト=ロシアと国交を回復し、相互に賠償請求を放棄するラパロ条約 Rapallo を結んで、国際社会を驚かせたのも、ドイツの修正主義外交の一環であった。一方、ポーランドも国家再興直後から分割前の「歴史的な領土」の回復を唱え、ヴェルサイユ講和条約が確定する前の1919年5月には、軍事行動によって東ガリツィアを占領して、連合国 に25年間の統治権を認めさせた。さらに翌年5月には、ベラルーシ・ウクライナに攻勢をかけ、一時キエフを占領した(ポーランド=ソヴィエト戦争) ❶ 。しかしソヴィエト=ロシアの強力な反撃にあい、8月には首都ワルシャワ前面にまで押し戻されたが、かろうじてこの危機を切り抜け、翌年3月にソヴィエト政府とのリガ条約 Riga で、ベラルーシ・ウクライナの一部をポーランドに含めた新国境が確定した。
トルコでは講和条約調印時にアンカラに本拠をおいていたケマルらの勢力が条約をうけ入れを拒否し、一方戦勝国となったギリシアはイズミル izmir を拠点に小アジアでの勢力拡大を企図して、軍事衝突にいたった(ギリシア=トルコ戦争)。1922年ギリシアが敗北してイズミルを放棄し小アジアから撤退すると、トルコは連合国 と交渉し、1923年7月 セーヴル条約 にかわるローザンヌ条約 Lausanne を改めて結び、トルコ・ギリシア間の国境が決定された。
ギリシアと同様に戦勝国でありながら、イタリアもまた早くから修正主義外交を展開した国であった。秘密条約による領土拡大の約束のもとに参戦した唯一の列強であったイタリアは、港湾都市フィウメ Fiume のイタリアへの帰属を要求し、それが認められないと1919年4月には一時講和会議を離脱した。こうした進展に不満をもつ作家ダヌンツィオ D’Annunzio (1863〜1938) ❷ らに率いられたイタリアのナショナリストの一団は、19年9月に独断でフィウメを占領した。その後フィウメはダンツィオ方式の自由港にすることが合意され、ダヌンツィオらは退去させられた。しかし、ムッソリーニ政権は1925年ユーゴスラヴィアにフィウメのイタリア帰属を認めさせ、当初の要求を押し通した。
ヴェルサイユ体制と国際連盟
十四カ条とヴェルサイユ条約以下の各講和条約で形成された国際体制は、全体としてヴェルサイユ体制と呼ばれ、それを統括する場として国際連盟 League of Nations が想定されていた。国際平和と安全保障のための史上初の国際組織である連盟は、1920年1月ヴェルサイユ条約の発効と同時に正式に発足した。加盟国は当初連合国 32カ国のみで構成され、ドイツなど旧同盟国とソヴィエト=ロシアは排除された。連盟は本部をスイスのジュネーヴにおき、国際労働機関(ジュネーヴ)と常設国際司法裁判所(ハーグ)が付置された。連盟の最高議決機関は年次総会で、重要な議決機関として理事会があり、英・仏・イタリア・日本の4カ国が常任理事国となった。アメリカ合衆国も常任理事国となることが予定されていたが、対外的義務の負担と外交的自由の拘束を嫌う共和党保守派の反対とウィルソン大統領自身の非妥協的姿勢によって、19年11月、上院でヴェルサイユ条約批准が否決されたため、国際連盟にも加盟しなかった。そのため、合衆国とドイツとの講和条約は1921年8月個別にベルリンで調印された。合衆国の不参加、敗戦国と革命ロシアの排除によって、ヴェルサイユ体制は事実上ヨーロッパ中心の国際体制という構造になった。
ワシントン体制
ワシントン会議と締結された条約
ワシントン会議 1921〜22 | 〈提唱者〉米大統領ハーディング 〈参加国〉英・仏・米・日・伊・蘭・中・ポルトガル・ベルギー *日本の中国進出の規制、海軍の軍縮 |
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四カ国条約 1921 | 〈締結国〉英・仏・米・日 *太平洋における領土の尊重、日英同盟解消 |
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九カ国条約 1922 | 〈締結国〉英・仏・米・日・伊・蘭・中・ポルトガル・ベルギー *中国の領土保全、機会均等、門戸開放 |
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海軍軍備制限条約 1922 | 〈締結国〉米・英・日・仏・伊 *主力艦保有比率を米5・英5・日3・仏1.67・伊1.67に定める |
合衆国では民主党のウィルソン大統領のあとをついで、1921年に共和党のハーディングが大統領になった。共和党はアメリカの外交の自由を唱え、国際連盟に反対したが、軍事力によらず国際経済の拡大によって世界の安定をはかる構想をもっており、1921年11月から翌年2月にかけて米・英・仏・日・イタリアなど9カ国が参加するワシントン軍縮会議を開催した。会議では米・英・仏・イタリアの主力艦の保有トン数の上限と保有比率を定めた海軍軍備制限条約が合意され、比率はそれぞれ5:5:3:1.67:1.67とされ、今後10年間主力艦を建造しないことも決められた。また中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約束した九カ国条約(前記5カ国にベルギー・オランダ・ポルトガル・中国が加わった)と、太平洋諸島の現状維持を約した米・英・仏・日の四カ国条約も締結され、日英同盟は解消された。これによってアジア・太平洋地域の新しい国際秩序が成立した。なお、会議とは別にこの機会に日中間の交渉がおこなわれ、山東半島の旧ドイツ権益を中国に返還することが決まった。
ヴェルサイユ体制とワシントン体制が、1920年代の国際秩序の主柱となった。
ロカルノ体制と国際協調
ルール占領で頂点に達した仏独関係の悪化への反省、ドーズ案による賠償問題の暫定的解決、戦後の国境紛争の沈静化、レーニン死後のソ連の内政問題への集中などにより、1924年以降、国際関係は小康状態に移行した。それを扇動したのは1923年秋からドイツの外相を務めたシュトレーゼマン Stresemann (1878〜1929)であった。彼も基本的には修正主義外交を支持していたが、対決ではなく、ドイツの現実にたって、英・仏などとの信頼関係を強め、25年から認められたドイツの関税自主権を梃子にドイツの経済力を高めながら、和解と協調を通してドイツの国際的地位を回復し、東部国境の改定などをめざそうとした。
シュトレーゼマンは1925年初め、フランスにドイツの西部国境の現状保障協定(集団安全保障協定)締結を打診した。フランス政府も関心を示し、とくに25年4月に外相に就任したブリアン Briand (1862〜1932)は積極的に対応したため、同年10月スイスのロカルノで英・仏・独・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキアの首相・外相会談が開催され、基本的内容が合意された。ロカルノ条約 Locarno とは会議で合意された、ラインラントの現状維持を定めた安全保障条約 ❶ 、ドイツと隣接4カ国(フランス・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキア)間の仲裁裁判条約の総称であり、正式調印は同年12月ロンドンでおこなわれ、26年のドイツの国際連盟加盟をもって発効した。ロカルノ会議では、ドイツがライン条約と類似した東部国境保障条約を拒否したため、フランスがポーランドとチェコスロヴァキアとの間で結んだ相互援助条約も成立した。
ロカルノ条約は、ヴェルサイユ体制の包括的集団安全保障をドイツの西部国境側に限定させたため、ヴェルサイユ体制を弱めたという側面もあるが、他方ではドイツを国際連盟に加盟させ、国際連盟を軸にした国際政治を強化し、国際協調の機運を高めた側面もあった。連盟本部があるジュネーヴに各国首脳が定期的に集まって、直接交流する光景はこの時期を象徴する一幕となった。ロカルノ会議から世界恐慌が勃発する1929年まで、ドイツのシュトレーゼマン外相、フランスのブリアン外相、イギリスのオースティン=チェンバレン外相 Austen Chamberlain (1863〜1937)がほぼ一貫してその地位にあったことも、国際協調の流れを支えた要因の一つであった。1927年4月、アメリカ合衆国の大戦参加10周年に際し、ブリアンはアメリカ国民に相互に武力不行使を約束する条約締結を呼びかけ、その後国務長官ケロッグ Kellogg (1856〜1937)に正式に提案した。これをもとに1928年8月、国際紛争の解決手段として武力を行使しないことを宣言する不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)に米・英・仏・独・日本など15カ国が調印し、その後賛同国は29年末までに54カ国に上った。
軍縮条約
ロカルノ条約 1925 | 提唱者 | 独外相シュトレーゼマン |
締結国 | 英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキア | |
ラインラントの現状維持と相互不可侵、ヨーロッパの集団安全保障体制 → 独、国際連盟加盟 | ||
不戦条約 (ブリアン・ケロッグ条約) 1928 | 提唱者 | 仏外相ブリアン、米国務長官ケロッグ |
締結国 | 米・英・仏・日など15カ国。後63カ国 | |
紛争解決の手段としての戦争を否定 | ||
ロンドン海軍軍縮条約 1930 | 提唱者 | 英首相マクドナルド |
締結国 | 米・英・日(仏は不参加、伊は脱退) | |
補助艦の保有率をほぼ米10:英10:日7に定める |