上杉景勝 うえすぎかげかつ( A.D.1555〜A.D.1623)
戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩初代藩主。謙信のあとを継ぎ上杉家を相続。越後を平定し、豊臣政権下で五大老に列する。関ヶ原の戦いに敗れ減封されるが、執政の直江兼続とともに出羽米沢において藩政確立に尽力した。
上杉景勝
謙信のあとを継ぎ上杉家を相続。越後を平定し、豊臣政権下で五大老に列する。関ヶ原の戦いに敗れ減封されるが、執政の直江兼続とともに出羽米沢において藩政確立に尽力した。
家康の野心を許さなかった「謙信の後継者」という自負
「義」の家風を貫いた戦国武将の品格
関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康に堂々たる反抗をしたのが上杉景勝である。秀吉子飼いの武将でもない景勝が、なぜ家康に反抗したのか。養父上杉謙信の影響が大きいといわれる。領土・権力欲の薄かった謙信は義のために戦い続け、軍神と讃えられた名将として知られていた。養父を誇りにし、また自身もそう生きた
いと願った景勝にとつて、秀吉没後の家康の処世には許せないものがあった。景勝は家康と一戦を交える覚悟を決めると、領国の会津を要塞化して待ち受けた。これが関ヶ原の戦いの契機となる。関ヶ原の本戦で西軍が敗北したため、結果として家康に降ったが、義を貫く家風の面目は立てた。
景勝、兼続という美しき主従関係
景勝は生涯に一度しか笑顔を見せたことがないと伝わるほどの無骨者だったという。対人関係や庶務においては不器用だったが、直江兼続という懐刀があったため、家を傾けることはなかった。家督争いや織田信長との戦い、越後平定など、苦楽をともにした戦友ともいうべきこの家臣は、秀吉からもその才を見込まれ、陪臣ながら米沢30万石を領したほどだった。兼続は関ヶ原の敗戦で自領米沢に転封となった主君景勝を快く迎え入れ、互いに上杉家再興のために尽力した。後世、景勝と兼続は戦国でもっとも美しい主従関係だったと評された。
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、中央政府の組織の整備が十分に行われなかった。腹心の部下である浅野長政(1547〜1611)・増田長盛(1545〜1615)・石田三成(1560〜1600)・前田玄以(1539〜1602)・長束正家(?〜1600)を五奉行として政務を分掌させ、有力大名である徳川家康・前田利家(1538〜99)・毛利輝元(1553〜1625)・小早川隆景(1533〜97)・宇喜多秀家(1572〜1655)・上杉景勝(1555〜1623)を大老(隆景の死後五大老と呼ばれた)として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。
- 豊臣秀吉の全国統一 – 世界の歴史まっぷ
幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。三成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家・島津義弘(1535〜1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。
対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561〜1624)・加藤清正(1562〜1611)·黒田長政(1568〜1623)らの諸大名で、三成と通じた会津の上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582〜1602)の内応により東軍の大勝となった。
家康は石田三成・小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家を八丈島に流し、西軍諸大名90家・440万石を改易(領地没収)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の諮代大名が取り立てられた。