上知令 じょうちれい
1843年、幕府の政治・経済基盤を再建するため、水野忠邦が江戸・大坂十里四方の大名・旗本の知行地を幕府直轄領にしようとした法令。替地を命じられた老中土井利位ら大名・旗本の反対により失敗。これを契機に忠邦は失脚し、天保の改革も挫折した。
上知令
1843年、幕府の政治・経済基盤を再建するため、水野忠邦が江戸・大坂十里四方の大名・旗本の知行地を幕府直轄領にしようとした法令。替地を命じられた老中土井利位ら大名・旗本の反対により失敗。これを契機に忠邦は失脚し、天保の改革も挫折した。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
天保の改革
天保の改革 (1841〜43, 12代将軍家慶・老中水野忠邦)
特色 | 復古理想主義 | 享保・寛政の改革にならい、支配体制を揺るがす内憂外患に対応するため、幕府権力の強化をめざす |
政策 | 生活緊縮 | 倹約令(1841 ぜいたく品や華美な衣装を禁止) 歌舞伎の江戸三座を場末の浅草に移転を命じる(1841) 人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰(1842) |
社会・経済統制 | 株仲間の解散(1841) 貨幣改鋳。棄捐令 人返しの法(1843 貧民の帰村を強制する) |
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政治統制 | 西洋砲術の採用(1841 高島秋帆が徳丸が原で練兵) 天保の親水給与令(1842 異国船打払令の緩和) 印旛沼の干拓工事 → 水野の失脚で中止(1843) 三方領知替え(1841 撤回) 上知令(1843 江戸・大坂周辺を直轄地とする → 撤回) |
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結果 | 諸層の不満が激化し、改革に失敗。幕府権力は衰退 |
1843(天保14)年に上知令を出し、江戸・大坂周辺の大名や旗本の支配地合わせて約50万石を直轄地にした。比較的豊かで年貢収入の多い江戸・大坂周辺を取り上げ、年貢収入の劣る代地を与えることによって財政収入を増やし、また幕府にとって政治的·軍事的に重要な江戸・大坂周辺を直轄することによってこの地域の支配を強化し、対外的危機ヘの対処もはかろうとした。しかし、諸大名や旗本が強く反発したため上知令は実施できず、忠邦は失脚し、改革自体も失敗に終わり、幕府権力の衰えを如実に示した。