下関条約 (日清講和条約 (
A.D.1895〜)
下関で締結した日清戦争の講和条約。全権は日本が伊藤博文・陸奥宗光、清が李鴻章。清は朝鮮の独立を認め、日本へ遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両、揚子江沿岸の沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港と揚子江航行権を与えた。
下関条約
日清戦争の講和条約。山口県下関の春帆楼で開かれた下関講和会議(日清講和会議)で締結。全権は日本が伊藤博文・陸奥宗光、清が李鴻章。清は朝鮮の独立を認め、日本へ遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両(邦貨約3億1000万円)、揚子江(現長江)沿岸の沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港と揚子江航行権を与えた。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
甲午農民戦争と日清戦争
日清両軍による甲午農民戦争の徹底鎮圧の提案が清朝側に拒否されると、7月末、日本は清軍に奇襲攻撃をかけ、ここに日清戦争(1894〜95)が勃発した。戦いは9月の黄海海戦で清国海軍の主力北洋艦隊を壊滅させ、同じく9月の平壌の戦いで清国陸軍を朝鮮から撤退させるなど、陸海ともに軍備の近代化で先行していた日本の圧勝に終わり、翌1895年4月、日本全権の伊藤博文(当時首相)・陸奥宗光(同外相)と清国全権李鴻章との間で下関条約が結ばれ、両国は講和した。その結果、以下の内容などが決定された。
- 朝鮮の独立(清は宗主国の立場を放棄)
- 日本への台湾・澎湖諸島・遼東半島割譲 ❷
- 賠償金2億両の支払い
- 重慶・杭州・蘇州・沙市4港の新規開港と開港場での企業経営の承認 ❸
- 一方的最恵国待遇 ❹
❷ このうち遼東半島はロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、清に変換された。
❸ 開港場における工業などの企業経営権は、このとき日本が列強にさきがけて獲得したものである(最恵国待遇により列強にもただちに追認された)。これにより日本や欧米列強の中国への資本輸出が本格化し、中国に対する経済的侵略がいっそう進行していった。
❹ 翌1896年には日清通商航海条約が結ばれ、清は関税自主権喪失と領事裁判権を承認した。
日清戦争の結果、日本は朝鮮半島から清の勢力を一掃して、大陸侵略への足場をきずいた。しかし同時にそれは極東での南下を推進するロシアと勢力圏を接することを意味し、新たにロシアとの深刻な対立をひきおこしていった。一方、それまで「眠れる獅子」としてその滞在的実力を恐れられていた清朝は、小国日本に惨敗したことでその弱体ぶりを暴露し、これより欧米列強と日本の中国侵略はいっそう激化していった。また、この敗戦によって洋務運動は最終的に挫折し、かわって敗戦の衝撃のなかから、清朝政治体制の変革を唱える変法運動がおこっていったのである。