亀茲(クチャ) (紀元前3世紀?〜11世紀?)
天山南路(西域北道)の代表的オアシス都市国家。西域経営の中心地。漢王朝では西域都護府、唐では安西都護府がおかれた。五胡十六国時代に活躍した高僧仏図澄・鳩摩羅什の出身地としても知られる。
亀茲
新疆ウイグル自治区の天山南麓、西域北道のほぼ中間に位置するオアシス都市。亀茲の名で漢代の記録にみえ、匈奴や後漢に服属したこともあるが、2世紀以後は独自の発展を遂げた。発掘された文書によって、クチャでは唐代までインド=ヨーロッパ語に属するトカラB語(クチャ語)が用いられていたことがわかっている。唐代には一時、唐や吐蕃の支配を受け、9世紀以降ウイグル化した。クチャの王家(漢代以来、白姓を名のる)は仏教を手厚く保護したため、クチャ周辺には数多くの仏教遺跡がある。キジル、クムトラなどの石窟寺院址には、主として5~9世紀の壁画が描かれている。またクチャ北方のスバシ伽藍址で日本の大谷探検隊が発掘した木製布張り舎利容器は、円錐形の蓋と箱の胴部に、楽器を演奏し舞踊する人物とエロスなどが描かれている優品である。これは古来、亀茲楽の名で中国や日本にも知られたクチャ音楽の演奏場面を示すものとして興味深い。
参考 小学館 日本大百科全書
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
オアシス都市国家
東トルキスタンのオアシス
東トルキスタンのオアシスは、人類の常住が困難な砂漠や草原の中で、相当数の人口を支えることのできる定住集落に発達したものが多い。そこでは、泉、井戸、水無し川、あるいは直接に川から水を引くなどして水をえて農耕がおこなわれた。最初は集落に過ぎなかったものが、やがて城壁をまわりにもった都市国家に成長したものが多く、住民の大部分はインド=ヨーロッパ語系の人々であった。集落の大きさは、水がどの程度得られるかによっており、大きなものでは、クチャ(亀茲)が人口10万を数え、カラシャール(焉耆)、アクス(姑墨)、カシュガル(疏勒)、コータン(于闐)などは2万を超えていた。また、小さなものでも人口1000を数えており、その規模はさまざまであった。これらのオアシスは、それぞれひとつの国を形成し、農耕、牧畜をおこない、隊商による中継貿易を経済的基盤にしていた。
諸地域世界の交流
陸と海のネットワーク
オアシスの道(オアシス・ルート)
中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス都市( オアシス都市国家)を結び、東アジア・西アジア・南アジア間を最短距離で結ぶ交通路である。このルートの主たる輸送手段は、乾燥に強いラクダによる隊商(キャラヴァン)である。長安から西行して黄河上流の蘭州を過ぎると砂漠が広がり、中国の最も西の端にある敦煌からは、タリム盆地を挟んで南北両道に分かれる。北道にはハミ・トゥルファン(高昌)・クチャ(亀茲)などがあり、南道にはローラン(楼蘭)・コータン(于闐)・ヤルカンド(莎車)などがある。こうして西行を続けるとパミール超えにかかる。パミール高原を超えて西トルキスタンへ入り、サマルカンド・ブラハからイラン高原・シリアへ、またパミール高原から北インド方面に行くことができる。このルートのオアシス都市は、東西交渉の発展と拡大の中で興隆し、多くの都市国家が栄えた。
東西文物の交流
人物の往来
仏僧の往来
こうした仏教の伝播は、多くの僧侶の往来によって成し遂げられたものである。西域から中国を訪れた高僧に、仏図澄(ブドチンガ、クチャ(亀茲)の人 ?〜348)、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ、クチャの人 344〜413)がおり、布教や仏典の翻訳に活躍した( 魏晋南北朝の文化)。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
秦・漢帝国と世界
光武帝(漢)以後数代にわたって国力の充実をはかった後漢は、やがて積極的な対外政策に転じ、匈奴の分裂に乗じて南匈奴を服従させ、北匈奴を北方に追い払って、西域の経営に力を注いだ。
さらに和帝(漢)のとき、西域都護に任命された班超(91年に西域都護)は匈奴を討って西域経営に大いに力を入れ、1世紀の終わりにはカスピ海以東の50余りのオアシス都市国家が漢に服属するようになった。
前漢の宣帝(漢)のとき(紀元前59)、匈奴の投降を契機に西域統治の機関として亀茲に西域都護府をおいた。その長官が西域都護である。前漢末の内乱によって西域に対する統治は途絶え、西域諸国も漢から離反した。それを復活したのが班超である。
滅亡
北宋時代の1096年、大首領の阿連撒羅ら3人に表章及び玉仏をもって洮西に至らせた。以後、カラキタイ、ナイマン、モンゴルに征服され、次第に衰退し、砂漠に埋没してしまった。20世紀になって、多くの仏教遺跡が発見・発掘されている。
参考 Wikipedia