五胡
4〜5世紀に華北に諸国を建てた、非漢族の匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つを指すと言われる。
五胡
4〜5世紀に華北に諸国を建てた、非漢族の匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つを指すと言われる。
東アジア世界の形成と発展
後漢末の黄巾の乱をきっかけに漢帝国が崩壊すると、中国は約3世紀半以上にわたる魏晋南北朝の分裂と動乱の時代を迎えた。この時代には三国の分立や五胡の自立、南北朝の対立などにより中国社会は大きな変化をみた。そうした中で、隋・唐の世界帝国につながる新しい体制の基礎がきずかれた。一方、江南の開発も進み産業が発達し、大土地所有の進行で台頭した豪族勢力が貴族化していった。
北方民族の活動と中国の分裂
北方民族の動向
1世紀ころモンゴル高原にいた匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏して長城の南辺に移住するようになり、魏・晋代には今の山西省全域にまで広がった。また、後漢後期以来、西方の氐、羌も移住させられたり、あるいは中央政府の力の衰えに乗じて進出したりして、陝西〜甘粛地方に多く移住するようになっていた。鮮卑は匈奴の力が衰えたあとに進出してきたため中国内地への移住は遅れたが、中国での動乱をさけた漢人の亡命者などを取り込んでいた。
これらの遊牧民などによって樹立された地方政権が、4世紀初めから130年余にわたって華北で興亡をくりかえした。したがって、このような動向を五胡の「侵入」と呼ぶより、むしろ華北における五胡の「自立」もしくは「蜂起」というべきである。
一方、こうした華北の混乱を避けて漢人の南方への移住も増大した。こののち華北では遊牧社会の要素を取り入れた新しい文化が生まれるとともに、江南では漢人による開発が進められていき、のちの隋・唐帝国の基礎がつくられることになった。
五胡十六国と南北朝
華北では、まず南匈奴が強盛を示したが、つづいて匈奴の別種といわれる羯が政権をたてた。
また、2世紀の中頃より中国の北辺を脅かしていた鮮卑も長城を越えて侵入し、政権を打ち立てた。
チベット系の氐や羌も、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。
このうち、氐のたてた前秦は、長安に都をおき強勢となり、長江以北を支配下に入れ、一時的に華北を統一した。さらに中国統一を目指して南下したが、東晋との淝水の戦いで敗れ(383)、これを契機に前秦は崩壊し、南北分立の形勢が決まった。これら匈奴・鮮卑・羯・氐・羌のなどの諸民族を総称して五胡という。このような分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝によって華北が統一された(439)。
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
スキタイと匈奴
王莽によって前漢が倒され、中国が混乱に陥ると、匈奴(東匈奴)の動きは再び活発になり、後漢の光武帝(漢)の派遣した遠征軍をも撃退して、一時勢力を盛り返した。しかし48年、内紛によって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏した。彼らは万里の長城の南に移住し、以後、 魏王朝・普王朝にいたるまで中国北辺を守備する役割を果たすことになった(五胡のひとつに数えられる匈奴とは、この南匈奴の末裔である)。
一方、モンゴル高原を根拠地として後漢や南匈奴と対抗した北匈奴は、91年、将軍竇憲の率いる後漢の遠征軍に大敗して本拠地を失い、西方のイリ盆地方面へと移動したが、やがて衰退して消滅した。
なお、4世紀に南ロシア草原に出現し、ヨーロッパに侵入したフンは、この北匈奴の子孫が西方に移動したものとする説が有力である。
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内陸アジアの新動向
匈奴が衰えたあとのモンゴル高原では、3世紀の半ば以降、モンゴル系またはトルコ系の鮮卑が有力となり、五胡のひとつとして華北に建国するにいたった。
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