今川義元
今川義元(落合芳幾画/東京都立図書館)©Public Domain

今川義元


今川義元( A.D.1519〜A.D.1560)

今川義元いまがわよしもとは、戦国時代の武将。兄との家督争いに勝利し、三河松平氏を支配下に置き、尾張へ侵攻。
駿河するが遠江とおとうみ三河みかわで検地を実施し財政を強化し、戦国大名領国化を完遂かんすいした。上洛を目指したが、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ戦死した。

今川義元

凡将といわれる義元の本当の素顔とは

駿河するが遠江とおとうみ三河みかわ3か国を支配し、東海に君臨した今川義元いまがわよしもとだが、武将としての評価は高くない。京文化にあこがれる「お歯黒大名」で、旧体制を墨守する無能な武将というものだ。

しかし、実際の今川氏は、戦国大名としてはかなり早い時期から検地を実施し、農村を直接把握しようという先進性をもっていた。全国に先駆けて「印判状いんばんじょう」という書状を発行して行政の効率化を進めたのも今川氏だ。これらは義元の父今川氏親いまがわうじちかが創始したものだが、義元はこれをさらに推進した。とくに検地を徹底させ、農村支配を大名による一円支配へと変革させた。

1553年(天文22)には、分国法である「今川仮名目録追加」を公布し、その条文で「自分の力量をもって国の法度を申し付く」と宣言している。この一文にこそ戦国人名としての義元の矜持きょうじがうかがわれる。

三国同盟で後顧の憂いを断ち西上の途へ

義元が家督を継いだ頃、今川氏の近隣諸国では新興勢力の動きが活発化してきていた。東には勢いに乗る北条氏がおり、北の武田氏は武田信虎たけだのぶとらが国内を統一して虎視眈々こしたんたん。西では尾張の織田信秀おだのぶひでが三河を狙っていた。こうした状況の中、義元は信虎に代わって武田の当主となった武田信玄たけだしんげんと同盟を結ぶ。次いで三河に侵攻した織田を撃破し三河を支配下に置いた。信秀が死ぬと、尾張にも勢力を広げ、今川氏の全盛を築く。その後、武田、北条と三国同盟を結んだ。後顧の憂いを断った義元は、ついに上洛じょうらくを目指す。そのためには尾張の織田が邪魔であった。

尾張では信秀の没後、家督争いを制した織田信長が国内を統一していた。義元は尾張・三河国境で織田方の武将の寝返りを工作し、大高城おおたかじょう鳴海城なるみじょうなどを手に入れた。こうして1560年(永禄3)、義元は4万といわれる人軍を率いて駿府を出発、尾張・三河国境に進出した。しかし、桶狭間で休息していたところを、義元の軍勢のわずか10分の1程度という信長勢が急襲。義元は槍でさされながらも相手の膝を太刀で断ち割るなど奮戦するが、あえなく討ち取られた。

今川義元公本陣跡
高徳院(名古屋市緑区)にある今川義元公本陣跡(画像出典:【公式】愛知・名古屋の公式観光ガイド AICHI NOW

〒470-1168 愛知県豊明市栄町南舘3−2 高徳院 桶狭間の戦いの義元本陣跡

桶狭間の謎:桶狭間の戦場は名古屋市緑区と豊明市の2カ所が知られている。奇襲攻撃ではなかったという説も最近唱えられているが、状況証拠にもとづく論争なので決着しそうもない。

略年表

  • 1519年 駿河国に生まれる
  • 1541年 この年以降たびたび地検を実施
  • 1542年 小豆坂の戦いで織田信秀と戦う
  • 1545年 駿河東部を北条氏から奪還
  • 1553年 「今川仮名目録追加」発布
  • 1554年 甲(甲斐国)・相(相模国)・駿(駿河国)三国同盟成立
  • 1560年 桶狭間の戦いで敗死
寿桂尼じゅけいに:今川義元の母寿桂尼は、「今川仮名目録」制定に関与し、子の今川氏輝いまがわうじてる(義元の兄)が14歳の若さで家督相続した際には自ら印判状を発給し政務を担当している。戦国大名今川氏を支えた女傑である。

今川氏の氏寺「臨済寺」

臨済寺(静岡市
臨済寺(静岡市)Wikipedia

今川義元の兄の墓所として創建された今川氏の氏寺 「臨済寺」 :16世紀前半に創建された名勝臨済寺(静岡市)は、人質時代の徳川家康が預けられた寺でもある。元は善徳寺といった。住持の太原雪斎たいげんせっさいは、義元の軍師としても活躍した。

同時代の人物

エリザベス1世(イングランド女王) (1553〜1603)

イングランド王国テューダー朝第5代女王(在位1558年11月17日 - 1603年3月24日)。イギリス宗教改革を完成させる。イギリス絶対王政の最盛期を築く。スペインの無敵艦隊を打ち破る。他国に先駆けてイギリス東インド会社を設立。重商主義政策をとると同時に救貧法を制定。大英帝国への礎を築く。

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