伊藤博文暗殺事件
1909年10月、伊藤博文が韓国の義兵運動・独立運動家安重根に満州のハルビン駅で暗殺された事件。総監を辞任し枢密院議長に復帰していた伊藤は、日露関係を調整するため渡満、ロシア蔵相と列車内会談を終えた直後に遭難。翌年韓国併合。
伊藤博文暗殺事件
1909年10月、伊藤博文が韓国の義兵運動・独立運動家安重根に満州のハルビン駅で暗殺された事件。総監を辞任し枢密院議長に復帰していた伊藤は、日露関係を調整するため渡満、ロシア蔵相と列車内会談を終えた直後に遭難した。安は「東洋平和論」を執筆し、翌年3月旅順監獄で死刑となる。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
韓国併合
日朝関係年表
1894 (明治27年) | 3 | 甲午農民戦争(東学党の乱) | |
8 | 日清戦争勃発 | ||
1895 | 4 | 下関条約(清は朝鮮の独立を許可) | |
10 | 閔妃殺害事件(公使館守備隊による閔妃殺害) | ||
1897 | 10 | 朝鮮、国号を大韓帝国(韓国)と改称 | |
第1次桂内閣 | 1904 | 2 | 日露戦争勃発(〜05) 日韓議定書調印(日本は事実上必要な土地の収用など、便宜供与を約する) |
8 | 第1次日韓協約調印(日本政府推薦の財政・外交顧問の設置) | ||
1905 | 7 | 桂・タフト協定(米が日本の韓国保護国化を承認) | |
8 | 第2次日英同盟協約(英が日本の韓国保護国化を承認) | ||
9 | ポーツマス条約(露が韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認) | ||
11 | 第2次日韓協約(日本が外交権を掌握して韓国を保護国化) | ||
12 | 漢城に統監府を設置 | ||
1906 | 2 | 統監府開庁(初代統監:伊藤博文) | |
第1次西園寺内閣 | 8 | 義兵運動が本格化 | |
1907 | 7 | ハーグ密使事件(韓国皇帝高宗の退位、純宗の即位) 第3次日韓協約(内政権を接収し韓国軍隊を解散) |
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8 | 義兵運動が本格化 | ||
第2次桂内閣 | 1908 | 12 | 東洋拓殖会社(東拓)設立 |
1909 | 7 | 韓国併合を閣議決定 | |
10 | 伊藤博文暗殺事件(安重根がハルビン駅頭で殺害) | ||
1910 | 8 | 韓国併合(韓国併合条約調印)。大韓帝国(韓国)を朝鮮と改称 | |
9 | 土地調査事業の開始(〜18) | ||
10 | 朝鮮総督府の設置(初代朝鮮総督:寺内正毅) | ||
1911 | 4 | 土地収用例制定。 | |
8 | 朝鮮教育令(同化教育の推進)公布 | ||
1919 | 3 | 三・一独立運動(パゴダ公園で独立宣言) | |
1923 | 9 | 関東大震災(関東全域で「朝鮮人狩り」) | |
1925 | 4 | 治安維持法を朝鮮・台湾・樺太に公布、5月施行・朝鮮神宮の創建 |
日露戦争の勝利によって日本の大陸進出は本格化した。すでに日露戦争中の1904(明治37)年8月に日本は韓国と第1次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交に介入した。翌1905年には、アメリカとの間に桂・タフト協定を取り交わし、日本の韓国、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に確認し合った。ついで戦後の1905(明治38)年11月には、第2次日韓協約(韓国保護協約、乙巳保護条約)を結んで日本は韓国の外交権を握り、漢城(現ソウル)に韓国統監府をおき、伊藤博文が初代統監となって統監政治を始めた。こうして日本は韓国を保護国とした。
これに対して韓国は1907(明治40)年6月、ハーグの万国平和会談に皇帝の密使を送って抗議したが、入れられなかった(ハーグ密使事件)。日本政府はこの事件をきっかけに、同年7月、韓国皇帝を退位させ、第3次日韓協約を結んで、その内政権を奪い、韓国の軍隊を解散させた。韓国内にはこれに反対して反日武装闘争の気運が活発化し、解散された軍隊も加わり義兵運動が高まったが、日本は軍隊を出動させてその鎖圧にあたった。1909(明治42)年10月、伊藤がハルビンで韓国の民族運動家安重根(アンチュングン 1879〜1910)に暗殺されると(伊藤博文暗殺事件)、日本は翌1910(明治43)年8月、ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし、その名称を朝鮮に、漢城を京城と改めて天皇直属の朝鮮総督府をおいてその統治にあたった。