保元・平治の乱
平安時代末期に起った2つの争乱。
- 保元の乱:藤原忠通・頼長兄弟の争いが崇徳上皇・後白河天皇兄弟の対立と結びつき,保元元年(1156)7月鳥羽法皇の死を機に勃発した戦い。上皇側は敗れ,崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は敗死し、天皇側を勝利に導いた源義朝・平清盛らの武士が政界に進出することとなった。
- 平治の乱:後白河院政開始後の信西(藤原通憲)の専横に対して不満をもった藤原信頼・源義朝が平治元年(1159)12月に起した争い。信西の武力的後援者の平清盛が熊野詣に出かけた留守をねらって挙兵したが、引返した清盛軍に敗れて信頼は討たれ、尾張に逃れた義朝も殺され、平氏の全盛期を迎えた。
保元・平治の乱
中世社会の成立
院政と平氏の台頭
保元・平治の乱
武家の棟梁としての源氏は、東国に勢力を広げつつも、源義家の後の源義親が流された出雲で反乱をおこし(源義親の乱 1107〜1108)、追討されるなどしてやや勢いを失うことになった。これにかわって院と結んで目覚ましい発展ぶりを示したのが、伊勢・伊賀を地盤とする桓武平氏の一族である。
中でも平正盛は、伊賀国の荘園を白河上皇に寄進して政界進出の基盤を築き、源義親を討って名をあげ、受領や検非違使となって伊勢平氏の地位を高めた。正盛の子平忠盛は瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得、受領として千一体の千手観音像を安置する得長寿院を造営したことで、殿上に昇ることが許され(殿上人)、武家という貴族の身分を獲得し、院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力をさらに飛躍的に伸ばしたのが、忠盛の子平清盛である。
平氏のめざましい出世に対して、源氏も巻き返しをはかり、義親の子で義家の養子となった源為義は摂関家と結びつき、さらに為義の子の源義朝は東国に下って鎌倉を根拠地にし、広く関東の武士との主従関係を築きあげていった。
鳥羽法皇はこうした源平の武士を組織し、さらに諸国の荘園を集積したことで、専制的な権力を築いたが、それだけにその後の権力の掌握を求める争いが激化した。
1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、兼ねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた崇徳上皇が朝廷の実権を握ろうと動いた。上皇は摂関家の継承を目指して兄の藤原忠道と争っていた左大臣藤原頼長らと結び、さらに源為義・平忠正らの武士を集めた。
これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った後白河天皇は、近臣の藤原通憲(信西)を参謀にして、平清盛や源義朝らの武士を動員し、先制攻撃を仕掛けて上皇方を破った。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、頼長や為義らは殺された。これを保元の乱という。これまで京都を舞台にした合戦がなかったことから、この乱は貴族に衝撃を与え、また武士が政争に使われたことで、時代の大きな転換を人々に印象付けることになった。のちに延暦寺の天台座主となった摂関家出身の僧慈円は、その著『愚管抄』でこれ以後『武者の世』になったと記している。
乱ののち、政治の主導権を握った藤原通憲は、平清盛の武力を背景にして、保元の新制を出して、新たな基準を設けて荘園整理や悪僧・神人の乱暴の取り締まりを行うなど、鳥羽院政の時代におこった社会の変動に対処した新たな政治を始めた。
保元の新制
律令格式の編纂ののちに朝廷から出される法令は、次第に「新制」と称されるようになった。荘園整理令もその一つであるが、多くは朝廷の内部の規律や服飾の統制を内容としている。しかし、保元の乱後に出された申請は、これまでになく大規模なもので、従来の整理基準を見直して、王土思想によりながら荘園整理を天皇の名のもとで行うこととし、白河・鳥羽の院庁下文や宣旨で認められた荘園は公認すること、さらに大寺院や大寺社に所属する悪僧や神人の取り締まりを行うことなどを定め、さらに翌年にも、内裏を中心とした官人の規律や風俗の統制を命じており、その後の新制の基準とされた。
やがて院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治元)年には、平清盛と結ぶ通憲に反感をもった近臣の一人藤原信頼が源義朝と結び、平清盛が熊野詣にきかけている留守をねらって兵をあげ、通憲を自殺させた。だが武力に勝る清盛は、京都の六波羅邸に帰還すると、藤原信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝を討ち、その子の源頼朝を捕らえて伊豆に流した。これが平治の乱である。
この二つの乱を通じて、貴族社会内部の争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。