勝海舟
勝海舟 咸臨丸での太平洋横断後、サンフランシスコにて撮影。(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

勝海舟


勝海舟 かつかいしゅう (勝義邦 A.D.1823〜A.D.1899)

幕臣。号は海舟。明治以降は安芳。1860年に咸臨丸艦長として遣米使節に随行。戊辰戦争の際、江戸高輪で西郷隆盛と会見し、江戸無血開城に努力。明治政府で参議兼海軍卿。枢密院顧問官などを歴任した。

勝海舟

幕臣。号は海舟。明治以降は安芳やすよし。1860年に咸臨丸かんりんまる艦長として遣米使節に随行。戊辰戦争ぼしんせんそうの際、江戸高輪で西郷隆盛と会見し、江戸無血開城に努力。明治政府で参議兼海軍卿。枢密院顧問官などを歴任した。

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幕臣で明治初期の政治家。日米修好通商条約の批准書交換のため1860(万延1)年に咸臨丸で渡米。サンフランシスコのリンカーン・パークには記念碑が立つ。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

江戸を戦火から救った旧幕府軍の最高責任者

江戸城総攻撃は目前 西郷との会談に臨む

武力によって徳川幕府にとどめを刺すべく東進してきた新政府軍は、江戸城総攻撃を1868年(慶応4)3月15日と定めた。その直前の13、14日に、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と旧幕府軍最高責任者・勝海舟との歴史的交渉が行われた。海舟は会談決裂の場合に備え、いくつかの手を打っている。江戸の侠客にいざというときは江戸を焼き払うよう命じ、その際に市民を避難させる段取りも整えた。また、新政府に影響力をもつイギリス公使パークスに、旧幕府軍には戦端を開く意思がないことを説明した。内戦により貿易に支障をきたすことを嫌ったパークスは、江戸の攻撃は国際法違反だと隆盛に苦言を呈したという。このような下準備を経て会談に臨んだ海舟は、徳川慶喜の恭順に免じて寛大な処置を、と談判する。京を発したときには対徳川強硬派だった隆盛だが、情勢の変化と海舟の周到な布石を見抜き、「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」と応じ、江戸は戦火から免れた。のちに明治政府から伯爵位を贈られ、1899年(明治32)世を去った。最期の言葉は「これでおしまい」だったという。

洋学への志:貧しかった青年時代、勝海舟は年10両の約束で全58巻の高価なオランダ語辞典を借り受けた。そして寝る間も惜しんで2部を筆写し、1部を売却、その代金で借り賃を支払ったという。
咸臨丸(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

海舟は幕命により咸臨丸艦長として渡米、日本初の太平洋横断に成功した。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

開国

1860(万延元)年、政府は日米修好通商条約批准書を交換するため、外国奉行新見正興しんみまさおき(1822〜69)を首席全権としてアメリカに派遣し、このとき勝義邦かつよしくに(海舟、1823〜99)らが幕府軍艦咸臨丸かんりんまるを操縦して太平洋横断に成功した。

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