南光坊天海 なんこうぼうてんかい( A.D.1536〜A.D.1643)
天台宗の僧。比叡山の南光坊に住んでいたが、徳川家康の信任を得て、川越の喜多院や下野国日光山を主宰したほか、徳川秀忠の命により、江戸上野に東叡山寛永寺を開いた。家康の側近として諮問にこたえた。家康の神号をめぐり、天海が主張した「大権現」が採用された。
南光坊天海
秀忠・家光の帰依を受けた天台宗の僧
天台宗の僧で東叡山寛永寺を開山。比叡山で天台学を学んだが、信長の比叡山焼き討ちにあう。関ヶ原の戦い後、家康の知遇を得て政務に参画。叡山最高職探題となり、延暦寺復興に努めた。家康が眠る日光山輪王寺建立に尽力。秀忠、家光の帰依を受け幕政にも参画した。
天海と崇伝
南光坊天海は、比叡山の南光坊に住んでいたが、徳川家康の信任を得て、川越の喜多院や下野国日光山を主宰したほか、徳川秀忠の命により、江戸上野に東叡山寛永寺を開いた。家康が亡くなると、その遺体は遺言にしたがって駿河国久能山に葬られ、廟地の造営がとりおこなわれた。以心崇伝は、外交事務と寺社行政を担当し、武家諸法度や禁中並公家諸法度の起草につくし「黒衣の宰相」とよばれた。南禅寺の金地院に住んでいたことから、金地院崇伝ともいう。家康の死後、その神号をめぐって、崇伝は「大明神」号を、天海は「大権現」号を主張したが、秀忠が大権現号に決定し、幕府は家康の神号宣下を朝廷に奏請して、後水尾天皇から「東照大権現」号が勅許された。