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南宋


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南宋 (1127年〜1279年)

中国の王朝の一つ。趙匡胤ちょうきょういんが建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた(靖康の変)後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)。
第2代皇帝孝宗の時代、隆興の和議で南宋と金朝は和平を結んだ。崖山の戦いで元朝(モンゴル帝国)に敗れ滅亡した。

南宋

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東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア世界の形成と発展

東アジア諸地域の自立化

宋の南遷と金の華北支配

靖康の変で華北一帯は金軍に占拠されたが、欽宗(宋)の弟趙構ちょうこうは江南に走り、皇帝に即位し(高宗)、杭州に都を置いて臨安りんあんと改称し、江南に拠って金朝に対抗した。これを南宋(1127〜1279<1276>)と呼ぶ。その後、南宋の内部では金朝に対する主戦派と和平派が対立するが、宰相秦檜しんかいの主導する和平派が、徹底抗戦を唱える武将岳飛がくひらを抑え、1142年、南宋は金朝に多額の歳貢さいこう(毎年銀25万両・絹25万匹)を贈るとともに、臣下の礼をとるという屈辱的な和議を結んだ(紹興の和約しょうこうのわやく)。こうして南宋は、大散関だいさんかん淮河わいが(淮水)を結ぶ線を国境とし、華北を完全に放棄することで両国に平和が訪れた。金朝は中国東北地方から内モンゴル・華北に広がる地域を支配した。

秦檜と岳飛

北宋末に進士に合格した秦檜しんかいは、官僚として栄達したが、靖康の変せいこうのへん(1126〜1127)で徽宗とともに金朝に連れ去られてしまった。その後、金の和平論者の撻懶だつらんのはからいによって帰国し、金の内情に通じていたことから、南宋の高宗(宋)の信任をえて、帰国後数年して宰相に起用された。秦檜は、金との戦争状態が長期化すると、民衆は重税によって苦しんで王朝への不満を高め、また、地方軍閥が台頭して中央政府の統制に服さず、かつての唐末五代のような社会混乱が再来することを恐れて、あえて和平論を主張した。

一方、農民出身で、一兵卒から異例の出世をとげた将軍岳飛がくひは、一流の武将でありながら学問の素養もある人物で、徹底抗戦を主張して秦檜と対立した。金との和平を急ぐ秦檜は、岳飛らの地方軍を中央軍に改変して統制を強化したが、最後までこれに従おうとしなかった岳飛を、無実の罪で捕らえて処刑してしまった。死後、その無実が明らかになると、岳飛は救国の英雄として廟にまつられ、今日でも民衆から尊敬をうけている。ところが、社会の安定と南宋の安泰を願って和平論を説いた秦檜は、華北を金に売り渡した売国奴として評判が悪い。

第4代海陵王かいりょうおう(金)は、たびたび南宋攻略を試みるとともに、中国文化を愛好し、1153年、燕京えんけい(中都大興府と改称、現北京)に遷都して、中国風の専制国家を樹立しようとした。
その後、世宗(金)が擁立されると、再び南宋と講話し、しばらく平和を保った。

世宗(金)は1165年、南宋と再講和し、歳貢を銀20万両・絹20万匹に減額した。

しかし、華北に南下定住した女真族はしだいに中国文化の影響をうけ、民族の伝統的気風を失っていった。また相つぐ戦乱は王朝の財政をおおいに窮迫させ、とくに海陵王(金)の南宋攻略のときには、戦費調達のために初めて紙幣(交鈔こうしょう)が発行された。
それ以後、財政の窮乏を切り抜けるために、大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、その結果、激しいインフレーションを引き起こし、経済は破綻し、王朝の衰亡をはやめた。

やがてチンギス=ハンの意思をついだモンゴル帝国第2代皇帝オゴタイが華北に侵入し(第二次対金戦争)、金朝の都の汴京べんけい(現開封・モンゴルの侵攻を恐れて1214年に燕京から遷都した)を包囲すると、第9代皇帝哀宗(金)は、いったん汴京から脱出したが、モンゴルと南宋に挟撃されて自殺し、1234年金朝は第9代120年で滅亡した。

宋の南遷と金の華北支配 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

歴史

南遷

1126年、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟趙構(高宗(宋))は南に移って、翌年の1127年に南京(現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。
はじめ岳飛がくひ韓世忠かんせいちゅう張俊ちょうしゅんらの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜しんかいが宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。

和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。
1140年には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、1142年、宋と金の間で和議(紹興の和約)が成立し、淮河わいがから大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。

孝宗の治世

秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(1161年)で勝利し、撃退した。
海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(世宗(金))が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。
海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎(孝宗(宋))が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ(隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。
金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。
孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化などさまざまな改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。

韓侂冑時代

孝宗は1189年に退位して上皇となり、光宗(宋)が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、皇后李氏の言いなりになっていた。
この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚ちょうじょぐ韓侂冑かんたくちゅうなどにより光宗は退位させられた。
韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年には趙汝愚に与した周必大、留正、王藺、朱熹しゅき、彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。その翌年には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。

韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた皇后と皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧2年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐)。

しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の史弥遠しびえんにより韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。

モンゴルの脅威

韓侂冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。
この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定6年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗(金)を宋軍と協力して追い詰めて、翌年に金は滅びた。

その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。だが、名将として知られた孟珙もうきょうの前に苦戦することになり、1239年に襄陽を南宋に奪還されると、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。
やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦いが行なわれ、モンゴル帝国の第4代皇帝・モンケの親征軍が出陣した。

滅亡

モンゴル・南宋戦争

しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにフビライが攻めていた鄂州(武昌)に援軍にやってきた賈似道がじどうはこれを退却させた(この戦いでは賈似道とフビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。

モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。

しかしモンゴル平原でモンゴル帝国の第5代皇帝・アリクブケを倒し、権力を掌握したフビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。

崖山の戦い

徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。忠臣の鑑と称えられる文天祥も2年以上各地で抵抗戦を続けたが、景炎3年(1278年)に元に捕えられ、獄中で『正気の歌』を詠み、元の至元19年(1282年)に刑死した。

南宋の滅亡時に国に殉じた忠臣は他の王朝に比べてはるかに多かったが、元の統治下で宋の遺民として生き続けた士大夫もおり、『文章軌範』を編纂した謝枋得しゃほうとく、『十八史略』を著した曾先之、『資治通鑑音注』(『資治通鑑』の注釈書)を著した胡三省こさんせいなど、文学・史学で名を残した宋の遺民も多い。

国際関係

南宋の外交相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した金、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした元朝(モンゴル帝国)である。北宋時代に関係があった高麗西夏などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上技術が進んだこと、平清盛の登場などにより日本との関係は盛んになる。

宋を従えた金は高麗・西夏・大理国なども従え東アジアの覇者となった。しかしその経済的地盤は弱く、宋からの歳貢が無ければその経済活動を支えきれず、その歳貢にしても宋からの輸入品に対する決済で使い果たされる状態であった。

宋と金とは約100年にわたって中国を二分していた。両国の間では金から宋に対しては馬・絹などが、宋から金に対しては銀・銅銭・陶磁器・香料・書画・書物などが交易でやり取りされた。ここで特筆すべきことがこの交易品目は北宋代に華北と江南でやり取りされていたものとほとんど同じであるということである。つまり北と南で治める国が異なるとはいえ、江南の物資が華北を支えるという中国の経済システムはほとんど変わりなく、更に発展を遂げていたのである。その後の元、更には明・清の経済システムも基本的にはこの延長線上にあるものである。

1127年、金軍は開封を包囲陥落させ、欽宗・徽宗以下官僚・皇族数千人を北へ連れ去り、開封には傀儡として宋の大臣張邦昌を皇帝に据え、楚と号させることにした(靖康の変)。
金軍が引き上げた後、張邦昌は今後の対応を哲宗の皇后であった孟氏の薦めにより、皇帝を退位し欽宗の弟趙構を南京応天府(現商丘市)にて帝位に迎えた(高宗(宋))。
1132年に高宗は金の追撃を避けて杭州へと逃げ込み、ここを仮の首都として臨安と称した。
1130年に金は宗翰の主導の下、北宋の地方知事であった劉豫を傀儡の皇帝に据え、斉と号させた。
金と斉は宋を何度も攻撃するが、宋の側もある程度の体勢を整え、軍閥勢力を中心とした軍をもって金・斉軍に対抗したため膠着状態に陥った。
ここで宗翰の政敵である撻懶は方針を転換、捕らえていた秦檜しんかいを解放し、宋を滅ぼすのではなく有利な条件での和約を望むようになった。

撻懶の思惑通り秦檜は宋の朝廷で力を発揮し和平論を進め、1138年に

  1. 斉は解体し、その領土は宋のものとする。
  2. 宋帝は金帝に対して臣礼をとる。
  3. 宋から金に銀25万両・絹20万匹を歳貢として送る。

などの条件で和約が結ばれた。

その直後に撻懶が宗翰らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、1141年に絹5万匹の増額・「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された(紹興和約)。

銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、歳貢を送るとなっていることが重要である。遼に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。ところが金に対しては臣として仕えねばならず、送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる宋学的考えからは到底認めがたい物であり、南宋を通じて北伐論は止むことが無かった。

1149年に金の3代熙宗を殺して新たに帝位に就いた海陵王は1161年に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに世宗(金)が擁立された。世宗は国内統制に忙しいため宋に対して

  1. 国境は現状維持。
  2. 金が君・宋が臣の関係から金を叔父・宋を甥の関係にする。
  3. 歳貢を歳幣に改め、銀絹それぞれ5万の減額。

とかなり宋に譲歩した和約を結んだ(乾道和約)。

宋の孝宗・金の世宗の2人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。寧宗朝で専権を振るった韓侂冑は金の窮状を好機と捉え、1206年に北伐を開始する(開禧用兵)。しかしこの出兵は失敗に終わり、韓侂冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。

宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルではチンギス=ハンが登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から契丹人が離反、1214年に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、これを撃退した。

追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、自らも滅ぼされた海上の盟のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。そして1234年、金の最後の皇帝哀宗は自殺し、金は完全に滅亡した。

モンゴル・元

金が滅ぼされるとその領土は蔡州(現河南省汝南県)と陳州(現河南省淮陽県)とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。

背信に怒ったモンゴル皇帝オゴタイ=ハンは宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に1241年にオゴタイ=ハンが崩御し、その後継を巡ってグユクとモンケの間で争いが起こり、最終的に1251年にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。

国内を安定させたモンケは弟フビライに対して大理国の征伐を命じ、フビライはこれに応えて1253年に征服を完了。モンケ自身も1258年に親征し、フビライ・ウリヤンカタイを別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。

しかしその翌年にモンケが崩御。後継を巡ってフビライと末弟のアリクブケの間で争いとなり、1264年にアリクブケが降伏してフビライが勝利。その後しばらくはフビライは国内統制に力を取られるが、1267年になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、1276年に臨安を占領され、更に1279年に最後の皇帝衛王も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は数年間反抗を続けた。

日本

日宋貿易

長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制は徐々に崩れていった。その流れは平安時代末期、平氏政権の成立とともに更に加速し、平清盛は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時福原京に遷都した。

一方、南宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。

交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。

航海技術に不安のあった日本商船は最初は高麗へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に初めて現れるのが紹興15年(久安元年、1145年)に「日本商人男女19人が温州に漂着した。」)というのが最初で、南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。

平氏政権が倒れ、鎌倉幕府が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、源実朝は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。また、鎌倉幕府も御分唐船という直営の交易船を出すようになったと言われているが、詳細については不明である。

鎌倉時代の中期頃になると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、建長6年(1254年)に唐船は5隻までそれ以上は破却せよという命令を出している。その命令の前後より宋はモンケの親征(1253年 – 1259年)を受けた。

咸淳2年(1266年、元至元3年、日本文永3年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。更にフビライの親征(1268年 – 1279年)に代わって、1279年の崖山の戦いでついに滅亡した。

宋が滅んだ後、元寇などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、日宋貿易は基本的に日元貿易へと引き継がれた。

歴代皇帝

  1. 高宗(宋) 1127年-1162年
  2. 孝宗(宋) 1162年-1189年
  3. 光宗(宋) 1189年-1194年
  4. 寧宗(宋) 1194年-1224年
  5. 理宗(宋) 1224年-1264年
  6. 度宗(宋) 1264年-1274年
  7. 恭帝(宋) 1274年-1276年
  8. 端宗(宋) 1276年-1278年
  9. 衛王(宋) 1278年-1279年

Wikipediaより

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