吉備真備
A.D.695〜A.D.775
奈良時代の学者・公卿。遣唐使(留学生)。養老元(717)年に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し、経書と史書、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、天平6(734)年に多くの典籍を携えて帰朝。橘諸兄のブレーンとして玄昉とともに活躍。天平12年真備らの追放を口実とした藤原広嗣の乱がおこる。天平勝宝2(750)年筑前守に左遷されたが、翌3年入唐使として渡唐、天平勝宝6年帰朝した。天平宝字8(764)年恵美押勝の乱に功があり、天平神護2(766)年右大臣。神護景雲3(769)年『刪定律令』を編纂、正二位。下道真備から吉備真備へ改名。
吉備真備
橘諸兄のブレーンとして活躍
奈良時代の学者・政治家。吉備地方の豪族の出身。717年(養老1)、留学生として渡唐。734年(天平6)に帰国。各種の学芸に通じ、橘諸兄のブレーンとして玄昉とともに活躍。藤原仲麻呂政権下では左遷されたが、朝命により再度入唐。従二位・右大臣に昇った。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
律令国家の形成
平城京の時代
藤原氏の進出と政界の動揺
皇族出身の橘諸兄が政権を握り、新しい知識を身につけて唐から帰国した玄昉や吉備真備が、聖武天皇の信任を得て政治に活躍した。
一方で天平の時代には各地で飢饉や疫病が続き、社会の動揺も広まっていった。740(天平12)年には、後退した藤原氏の中から式家宇合の長子で大宰府に赴任した藤原広嗣が、玄昉・吉備真備らの排除を求めて九州で兵を動員し、乱をおこした(藤原広嗣の乱)。乱は中央から派遣された大軍との激戦ののち鎮圧されるが、政府の動揺はおさまらず、それから数年の間、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)・難波京(大阪市)・紫香楽宮(滋賀県甲賀市)などに都を転々と移すことになった。
遣唐使
渡海のコースとしては、初めは博多から壱岐・対馬を経て朝鮮半島の西岸沿いに進み、渤海湾経由で山東半島に渡って陸路長安に向かう「北路」をとったが、8世紀に新羅との国交関係が悪化すると、より危険を伴うものの、五島列島から直接東シナ海を渡る「南路」によって長江河口を目指し、そこから陸路長安に向かうコースがとられるようになった。南路による帰途には、漂流して南西諸島沿いに帰国することも多かった。
多くの犠牲を伴いながら入唐した遣唐使たちの一部は、唐の長安におもむいて先進的な政治制度やインド・西アジア・西ヨーロッパにまで及ぶような周辺諸民族が集まる国際的な文化を吸収することができた。遣唐使の中では、長期にわたって唐で学んだ阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らが名高い。
遣唐使の苦労
732(天平4)年に任命され翌年唐に渡った遣唐使の帰路は、苦難の道のりであった。任を終えて734(天平6)年10月に帰国するとき、長江河口を出発した四船は暴風に遭い散り散りとなった。
大使の船は同年11月に種子島にたどり着いたが、副使が帰着して帰国報告をしたのは遅れて736(天平8)年8月のことであった。判官の平群広成ら115人が乗った船にいたっては、東南アジアの崑崙国に漂着して兵に捕らえられて殺されたり、逃亡したり、90余人が疫病で死に、平群広成ら4人のみが生き残り、崑崙王の元に拘留されたのである。
735(天平7)年、唐から帰国した崑崙人商人の船に潜り込んで唐に戻った平群広成らは、玄宗(唐)に信任されていた阿倍仲麻呂のとりなしを得て、今度は渤海国経由で帰る許可を得、738年5月、渤海国にいたった。そこで渤海王に帰国を懇望し、渤海からの遣日本使の予定を早めて日本に送り届けてもらうことになった。しかし、その船も波浪に遭って1隻が転覆し、渤海使節の大使ら40人が日本海に沈んでしまった。平群広成らはようやく出羽国に到着し、奈良の都に戻ったのは、739(天平11)年10月のことであった。しかも、残る1船についてはまったく消息が伝わらない。たまたま大使の船で帰国できた玄昉や吉備真備が、その後活躍したことと明暗をなす話である。
阿倍仲麻呂・藤原清河は帰国することができないまま玄宗(唐)の寵を受けて高官に上り、結局、唐で死去した。無事に帰国できた吉備真備や玄昉は、20年近い在唐中に得た新しい政治・軍事・文化・仏教などの知識や文物を日本にもたらし、奈良時代の文化に大きな影響を与えるとともに、聖武天皇に重用されて政界でも活躍することになった。
貴族政治と国風文化
国風文化
国文学の発達
仮名の音節
『万葉集』の仮名には静音と濁音の別があり、また、エキケコソトノヒヘミメヨロの13音が2種にわかれ、合計87の音節があった。この区別は奈良時代から乱れ始め、9世紀初めの延暦年間に習字の手本として用いられた「あめつちの詞」では、
「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(育せよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)」
という48文字となった。なお「いろは歌」はこれから「江」を除いた47字からなっており、平安初期に存在していたと考えられるア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別がされていない。
「いろは歌」は、空海の作ともいわれるが、おそらく平安時代の中期以後のものであろう。
また「五十音図」は、インドの梵字の知識をもとに日本語の音節組織を図式化したものである。吉備真備の作ともいわれるが、これには真言宗の僧侶が関係したと考えられる。
このように、日本語を書き表すための文字や文体の工夫が進んでいくにしたがい、それらを用いて日本人の感覚をより生き生きと表現することが可能となり、和歌をはじめとする国文学が発達した。
経歴
日付は旧暦。
- 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。
- 霊亀2年(716年) 8月20日:遣唐使に付随し、留学生となる。
- 霊亀3年(717年) 3月:難波を発す。帰路では種子島に漂着。
- 天平7年(735年) 3月:帰朝(この時の位階は従八位下)。聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下から一挙に10階昇進して正六位下、大学助に任官。
- 天平8年(736年) 正月21日:外従五位下に昇叙。日付不詳:中宮亮に任官。
- 天平9年(737年) 2月14日:従五位下に昇叙。12月27日:従五位上に昇叙。日付不詳:右衛士督を兼任。
- 天平12年(740年) 11月21日:正五位下に昇叙。
- 天平13年(741年) 7月3日:東宮学士に任官。
- 天平15年(743年) 5月5日:従四位下に昇叙。6月30日:春宮大夫に転任。東宮学士元の如し。
- 天平18年(746年) 10月19日:下道朝臣から吉備朝臣に改姓。
- 天平19年(747年) 3月:春宮大夫・東宮学士辞任。11月4日:右京大夫に任官。
- 天平勝宝元年(749年) 7月2日:従四位上に昇叙。
- 天平勝宝2年(750年) 正月10日:筑前守に遷任。日付不詳:肥前守に遷任。
- 天平勝宝3年(751年) 11月7日:遣唐副使に補任。
- 天平勝宝4年(752年) 閏3月3日:遣唐使出発。
- 天平勝宝5年(753年) 12月7日:唐より帰国の遣唐副使・吉備真備ら一行の船が、紀伊国牟漏崎に漂着する。
- 天平勝宝6年(754年) 3月:遣唐使帰朝。4月5日:大宰大弐に転任。4月7日:正四位下に昇叙。
- 天平宝字5年(761年) 11月17日:西海道節度使兼帯。
- 天平宝字8年(764年) 正月21日:造東大寺長官に異動。9月11日:従三位に昇叙し、勲二等に叙勲、また、参議に補任。中衛大将を兼帯。
- 天平神護2年(766年) 正月8日:中納言に転任。3月12日:大納言に転任。10月20日:従二位に昇叙し、右大臣に転任。中衛大将元の如し。備中国下道郡大領を兼任。
- 神護景雲3年(769年) 2月:正二位に昇叙、右大臣・中衛大将元の如し。
- 神護景雲4年(770年) 10月8日:中衛大将を辞す。
- 宝亀2年(771年) 3月:右大臣辞任。
- 宝亀6年(775年) 10月2日:薨去。
参考 Wikipedia
吉備真備が登場する作品
古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」
吉備真備を吉岡秀隆が演じている。
古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ
遣唐使表
遣唐使表
年代 | 規模 | 備考 | 中国皇帝 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | 出 | 舒明2年(630年) | ? | 使節・犬上御田鍬 | 2代太宗(唐) |
帰 | 舒明4年(632年) | 僧旻帰国 | |||
2 | 出 | 白雉4年(653年) | 241人 2隻 | 2つの使節が同時出発 高田根麻呂の船難破 | 3代高宗(唐) |
帰 | 白雉5年(654年) | ||||
3 | 出 | 白雉5年(654年) | 2隻 | 高向玄理、唐で死亡 | 3代高宗(唐) |
帰 | 斉明元年(655年) | ||||
4 | 出 | 斉明5年(659年) | 2隻 | 第1船漂着 | 3代高宗(唐) |
帰 | 斉明7年(661年) | ||||
5 | 出 | 天智4年(665年) | ? | 3代高宗(唐) | |
帰 | 天智6年(667年) | ||||
6 | 出 | 天智6年(667年) | 3代高宗(唐) | ||
帰 | 天智7年(668年) | 帰国不確実 | |||
7 | 出 | 大宝2年(702年) | ? | 武周(武則天) | |
帰 | 慶雲元年(704年) | ||||
8 | 出 | 養老元年(717年) | 557人 4隻 | 阿倍仲麻呂, 吉備真備, 玄昉 | 9代玄宗(唐) |
帰 | 養老2年(718年) | ||||
9 | 出 | 天平5年(733年) | 594人 4隻 | 第三・四船遭難 | 9代玄宗(唐) |
帰 | 天平6年(734年) 天平8年(736年) | 真備・玄昉 | |||
10 | 出 | 天平勝宝4年(752年) | 120人 4隻 | 使節・藤原清河, 真備 第一船難破 | 9代玄宗(唐) |
帰 | 天平勝宝5年(753年) 天平勝宝6年(754年) | ||||
11 | 出 | 天平宝字3年(759年) | 90人 1隻 | 迎入唐大使使派遣 | 10代粛宗(唐) |
帰 | 天平宝字5年(761年) | ||||
12 | 出 | 天平宝字5年(761年) | 4隻 | 中止(船破損) | 10代粛宗(唐) |
13 | 出 | 天平宝字6年(762年) | 2隻 | 中止(安史の乱) | 10代粛宗(唐) |
14 | 出 | 宝亀8年(777年) | 4隻 | 第一船難破 第二〜第四船漂着 | 11代代宗(唐) |
帰 | 宝亀9年(778年) | ||||
15 | 出 | 宝亀10年(779年) | 2隻 | 12代徳宗(唐) | |
帰 | 天応元年(781年) | ||||
16 | 出 | 延暦23年(804年) | 4隻 | 橘逸勢(往), 最澄・空海 | 12代徳宗(唐) |
帰 | 大同元年(806年) | ||||
17 | 出 | 承和5年(838年) | 600余人 4隻 | 使節・小野篁の不服, 円仁(往) 第二・三船遭難 | 17代文宗(唐) |
帰 | 承和6年(839年) | ||||
18 | 出 | 寛平6年(894年) | 菅原道真の建議により 遣唐使中止 | 22代昭宗(唐) |
同時代の人物
玄宗(唐)(685〜762)
唐(王朝)第9代皇帝(在位712年9月8日 - 756年8月12日)。姓・諱は李隆基。 治世の前半は、太宗(唐)の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐(王朝)絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。