商鞅 (?〜紀元前338年)
秦を改革した法家の政治家。秦の孝公につかえて改革(変法)を実施し、秦の強大化に貢献した。この功績により商に封ぜられたので商鞅という。しかし孝公の死後、反対派により謀反の罪に問われ、処刑された。
商鞅
秦を改革した法家の政治家。秦の孝公につかえて改革(変法)を実施し、秦の強大化に貢献した。この功績により商に封ぜられたので商鞅という。しかし孝公の死後、反対派により謀反の罪に問われ、処刑された。
天下統一への布石を築いた賢者
政治家。衛の貴族の出身。孝公(秦)が賢者を求めていると聞いて秦に赴く。孝公の信任を得ると、2度にわたって商鞅の変法と呼ばれる大改革を断行。この結果、秦は一躍強国の仲間入りを果たす。孝公が死ぬと反対派によって殺され、一族も皆殺しにされた。
変法で秦を強国に
戦国時代、法家に学ぶ。秦の孝公につかえ「商鞅の変法」で戸籍整備、度量衡の統一、功績重視政策などを実施。秦の強大化に成功した。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
秦の統一
戦国時代 紀元前315年頃 戦国諸国の版図
戦国時代 紀元前250年頃 戦国諸国の版図
秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代(中国)はじめの孝公(秦)のとき都を咸陽に移し、法家の商鞅を用いて富国強兵政策を行い中央集権化をはかった。その後、秦は戦国七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々に滅ぼして、紀元前221年に中国を統一した。中国を統一して諸王の王となった秦王の政は、「王」に変えて新たに「皇帝」(「煌々たる上帝」、光り輝く絶対神という意味)の称号を採用した。すなわち秦の始皇帝(位紀元前221〜紀元前210)である。始皇帝は、法家の李斯の意見にもとづき中央集権的な統一政策を実施した。
商鞅の改革
商鞅は衛の国の公子で、形名(法律)を学んだが衛の国では受け入れられず、秦に入り、紀元前361年以降、孝公(秦)に仕えた。商鞅は孝公に富国強兵を説いて受け入れられ、中央集権的支配体制の確立に努めた。改革の中心は以下の点である。
- 県制の実施:新しい占領地(小国)に県制を施行し、長官を派遣しておさめた。これによって農民を直接国家の成員として把握、個々の農民を支配して税役の基盤とした。
- 分異の法:成人男性が2人以上いる家庭を強制的に分家させて小家族を作り、新開地に移住させた。この結果、生産力が大いに向上した。
- 什伍の制:農民を5家・10家単位で隣組を作らせ、治安維持などの面で連帯責任を負わせた。
- 軍功爵 軍功によって爵位を与え、その爵位の等級に応じて土地・財産を与える。出身氏族の区別無しに兵士に採用し、手柄をたてたものには、身分の差なく爵位を与えた。また、爵位の等級によって土地・財産が与えられ、兵士たちの忠誠心や戦意は飛躍的に向上した。
こうした一連の改革は「商鞅の変法」と呼ばれ、厳格な賞罰規定が設けられた。
商鞅が登場する作品
大清帝国
紀元前361年
中国西部の弱小国・秦の君主・嬴渠梁は、隣国・魏との戦いで苦境に立たされ、函谷関など重要拠点を手放すことで辛くも、滅亡の危機を脱する。
疲弊し傷ついた国を建て直すべく、彼は「国家改革」を決断し、「広く奇計の士を求む」と国内外より優秀な人材の登用に動く。
一方、魏の宰相・公叔座の弟子・衛鞅(商鞅)は、師の亡き後魏を出奔し、秦へと向かう。
大秦帝国 -QIN EMPIRE- あらすじと登場人物 – 世界の歴史まっぷ