国家主義
国家の利益を個人の利益に優先させる思想。明治20年代に高まったが、日露戦争後はその達成感から人生の意義に煩悶する(いろいろと悩みもだえる)青年も出現した。その後、軍国主義・対外膨張論と結びついて超国家主義へと発展した。
国家主義
国家の利益を個人の利益に優先させる思想。明治20年代に高まったが、日露戦争後はその達成感から人生の意義に煩悶する(いろいろと悩みもだえる)青年も出現した。その後、軍国主義・対外膨張論と結びついて超国家主義へと発展した。
近代国家の成立
近代文化の発達
宗教の自由
教育勅語が発布され、内村鑑三不敬事件がおこると、「忠君愛国」を強調する国家主義の立場から、キリスト教がこれと相入れないとする攻撃も行われるようになり ❶ 仏教界からのキリスト教攻撃もおこって宗教界は混乱した。
思想界の動向
三宅雪嶺(雄二郎、1860〜1945)·杉浦重剛(1855〜1924)·陸羯南(実、1857〜1907)・志賀重昂(1863〜1927)ら政教社(1888年設立)のグループは、雑誌『日本人』(1888年創刊)や『日本』(新聞、1889年創刊)によって、西洋文化の無批判な模倣に反対し、日本固有の伝統のなかに価値の基準「真・善・美」を求め、それを基礎に国民国家をつくりあげようとする、いわゆる国粋保存主義を説いた。いずれも国民を基磋にしたナショナリズムの立場に立ち、上からの国家主義には批判的であったが、日清戦争を契機に、しだいに批判的立場は失われ、徳富の国家主義への転身にみられるように、上からの国家主義に同化されていった。また、1900年ころになると、列強の帝国主義に対抗するかたちで、高山樗牛(1871〜1902)は雑誌『太陽』によって日本主義を唱えた。
こうして日清戦争後は、日本の対外膨張・大陸進出とそれを支える国家主義が思想界の主流となった。加藤弘之(1836〜1916)·井上哲次郎(1855〜1944)ら帝国大学(帝大、のち東京帝国大学)の学者が中心となって、ドイツ流の国家主義や社会有機体論などを取り入れ、盛んに個人に対する国家の優越を説いた。また、社会進化論が加藤らによって広まるなかで、これを国家と国家の関係に適用し、国際社会における優勝劣敗・弱肉強食を肯定する考え方が強くなっていった。国家主義の思想は伝統的な儒教道徳と結びつき、日本を天皇を頂点とする一大家族とみなし、「忠孝一致」「忠君愛国」の精神が強調されるようになった。このような家族国家観は、明治時代末期には政府により国定の修身教科書のなかに取り入れられ、義務教育の普及や国民道徳論の展開に伴って広く国民の間に国体観念を植えつけ、天皇制国家の社会秩序を内面から支える強力な道徳的・精神的支柱となった。
教育の普及と統制
政府の国家主義的な教育理念を広く国民に示したものが、1890(明治23)年に発布された教育に関する勅語(教育勅語)であった。これは井上毅·元田永孚(1818〜91)らによって起草されたもので、儒教的な家族主義の道徳と近代的国家主義に基づく愛国の理念とを基礎に、「忠君愛国」「忠孝一致」を教育の基本として強調している。これによって、天皇は単なる政治的主権者であるばかりでなく、国民の道徳的・思想的中心とされた。教育勅語は学校で奉読することによって大きな効果を発揮し、その理念は1903(明治36)年に始まった小学校における国定教科書の制度と相まつて、修身教科書などを通じて、広く国民に国体観念を植えつけることとなり、天皇を中心とした国家体制を内面から支える役割を果たした。
学問の発達
人文科学·社会科学の面では、はじめ英・米系の自由主義的傾向のものが主流であったが、明治時代の後半には、ドイツ系の国家主義的な学問がしだいに優勢となった。哲学において、ドイツ哲学の影響を受けた井上哲次郎・大西祝(1864〜1900)、法学においてはフランス法系の梅謙次郎(1860〜1910)·富井政章(1858〜1935)、イギリス法系の穂積陳重、経済学においては田口卯吉(1855〜1905)らが業績をあげた。