大坂の陣
江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。江戸幕府軍が勝利し豊臣氏は滅亡した。
- 1614(慶長19)年10月:大坂冬の陣
- 1615(元和元)年4月:大坂夏の陣
大坂の陣
徳川方と豊臣方の間の2度の戦いをいう。1614冬、徳川軍が防衛を整えた大坂城を包囲したが、その後に講和が成立。しかし、徳川方は、講和条件を無視して内堀の埋め立てを強行し、1615年夏に再び戦闘状態となり、豊臣氏は滅亡した。
戦争データ
年月日:慶長19年(1614年)11月〜慶長20年(1615年)5月 | |
場所:摂津国、河内国、和泉国 | |
結果:江戸幕府軍の勝利 豊臣氏滅亡 |
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交戦勢力 | |
江戸幕府 | 豊臣氏 |
指導者 | |
徳川家康 徳川秀忠 |
豊臣秀頼 |
戦力 | |
冬の陣:約200,000 夏の陣:約165,000 |
冬の陣:約90,000 夏の陣:約55,000 |
幕藩体制の確立
幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼は依然として大坂城におり、摂津·河内・和泉3カ国65万石余りの一大名になったとはいえ、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせた。駿府に隠退して大御所と称した家康は、実権を握り続け、ついに1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、10月大坂冬の陣を引きおこし、12月いったん和議を結んだ。翌1615(元和元)年4月大坂夏の陣を戦い、5月大坂城陥落、淀君(1567〜1615)·秀頼母子の自害によって戦いは終わった。ここに「元和偃武」と呼ばれる「平和」の時代が到来した。