大塩の乱 A.D.1837〜
大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎らは、天保の飢饉による貧民の窮乏を大坂町奉行に訴えたが容れられず、近隣農村に決起を促して蜂起したが、鎮圧される。各地に一揆を誘発し、それが与えた影響は広く深かった。
大塩の乱
1837年、大塩平八郎らは、天保の飢饉による貧民の窮乏を大坂町奉行に訴えたが容れられず、近隣農村に決起を促して蜂起したが、鎮圧される。各地に一揆を誘発。『出潮引汐奸賊聞集記』や『跋扈巨潮伝』にその様子が描かれている。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
大塩の乱
天保期に入ると、毎年のように凶作となった。1832(天保3)〜33(天保4)年には収穫が平年の半分以下となり、厳しい飢饉となった(天保の飢饉)。農村や都市の百姓一揆・打ちこわしが年間で100件を超え、江戸時代の百姓一揆発生件数のピークとなった。1836(天保7)年の飢饉はとくに厳しく、甲斐国都留郡(当時、郡内と呼ばれた)でおこった郡内騒動は、80カ村1万人が蜂起し、豪農・豪商宅を打ちこわして甲府に迫り、三河加茂郡の加茂一揆も、240カ村1万2000人が蜂起した大規模な一揆であった。ともに幕領での一揆であることから、幕府は衝撃を受けた。
大坂でも飢饉の影響は大きく、餓死者が相ついだ。しかし、富商らは米を買い占めて暴利を得、大坂町奉行所は救済策をとるどころか、幕府の指示により大坂の米を大量に江戸に廻送していた。大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎(1793〜1837)は自らの蔵書を売って窮民救済にあてるなどしていたが、この状況に怒り、窮民の救済と幕政の根本的な転換をかかげ、家塾洗心洞の門弟や民衆を動員して武装蜂起した(大塩の乱)。大塩勢は大砲を撃ち、富商宅を焼き、市中に火を放ちながら進軍したものの、幕府軍により半日で鎮圧された。幕府の重要な直轄都市である大坂でしかも幕府の元役人が公然と反乱をおこしたことは、幕府や諸藩などに強い衝撃を与えた。
この事件の風聞は全国各地に広がり、それが与えた影響は広く深かった。同年に国学者の生田万(1801〜37)が大塩門弟と称して越後柏崎の桑名藩陣屋を襲い(生田万の乱)、摂津能勢郡でも「大塩味方」をかかげた一揆がおこり、江戸でも「大塩余党」の蜂起が予告されたり、不穏な情勢が続いた。
江戸では、幕府が「お救い小屋」を建てて窮民を収容したり、寛政の改革で設けた江戸町会所の備蓄米·銭を与えるなどして、かろうじて打ちこわしなどを未然に防いだ。