大宰府
7世紀後半、律令制の成立にあたって、全国の要地におかれた総領(大宰)が廃止されたが、朝鮮半島・大陸との外交・軍事の最重要地である筑紫のみは存続し、「大宰府」と称された。600人近い官人が勤務し、対外的には軍事と外交を管轄し、内政上では西海道の9国3島を総轄した。
大宰府
律令国家の形成
大宰府
7世紀後半、筑紫、吉備、周防、伊予、坂東など、全国の要地におかれて周辺の数カ国を管轄していた総領(大宰)は、律令制の成立にあたって廃止されたが、朝鮮半島・大陸との外交・軍事の最重要地である筑紫のみは存続し、その名も単に大宰府と称されるようになった。
大宰府には、帥、大弐、少弐以下、600人近い官人が勤務し、多くの被管官司を従えていた。
その職掌は、対外的には軍事と外交を管轄し、内政上では西海道の9国3島を総轄する事であった。また、管内の租税はいったん大宰府に集められて府の費用にあてられ、一部を京進することとなっていた。
現在、福岡県太宰府市に政庁跡が残り、発掘調査が進められている。その結果、東西24坊(2.6km)、南北22条(2.4km)の大宰府条坊と、その北辺中央部の4町(0.4km)の政庁の存在が確認された。
それは単なる地方官衙の枠を超え、藤原京や平城京のミニチュア版といったものであり、まさに「天下の一都会」と称された「遠の朝廷」の名にふさわしい規模と格をもっていた。