大岡忠相 おおおかただすけ( A.D.1677〜A.D.1751)
江戸時代中期の江戸町奉行として有名。山田奉行時代、紀伊領と関係のあった問題を紀州藩に気がねせずに解決して、徳川吉宗に認められ、吉宗の享保の改革を江戸町奉行として支えた。江戸南町奉行の職にあって越前守と称せられ、その事績と活躍ぶりは「大岡政談」となって世に親しまれている。
大岡忠相
江戸時代中期の江戸町奉行として有名。大岡忠高の子。大岡忠真の養子となり、元禄13(1700)年寄合、その後山田奉行。山田奉行時代、紀伊領と関係のあった問題を紀州藩に気がねせずに解決して、徳川吉宗に認められ、後年、吉宗が将軍に就任したとき江戸町奉行に抜擢されたといわれる。忠相は江戸南町奉行の職にあって越前守と称せられ、その事績と活躍ぶりは「大岡政談」となって世に親しまれている。享保9(1724)年の札差仲間官許とその取り締まり、同14年の古借利金引下令による騒動の解決、罪刑の連座制廃止や拷問の軽減などを行なったが、一般的には刑罰を軽くしたことで江戸庶民のアイドルとして慕われたことは否定できない。町奉行を20年間つとめ、元文1(1736)年60歳で寺社奉行となり、江戸城雁間の末席に加えられて大名並みの待遇を受けた。寛延1(748)年にはそれまでの領地に合せて三河国に4080石の加増を受け、1万石の大名に列せられた。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
幕藩体制の動揺
幕政の改革
享保の改革
綱吉以来続いた柳沢吉保・間部詮房・新井白石らによる側近政治のため、幕政から排除された譜代大名らは、不満を強めていた。彼らの期待を担って将軍となった吉宗は、譜代大名からなる老中・若年寄を重視するとともに、新たに側近である御側御用取次を設け、老中らと側近を巧みに使った。また、旗本の大岡忠相(1677〜1751)や東海道川崎宿の名主であった田中丘隅(1662〜1729)らの有能な人材を登用した。さらに、荻生徂徠に政治のあり方を諮問し、室鳩巣(1658〜1734)らの儒学者を侍講に用い、将軍が先頭に立って改革に取り組んだ。