大政奉還 A.D.1867〜
将軍慶喜が朝廷へ政権を返上したこと。1867年10月土佐・安芸両藩が土佐藩全藩主山内豊信をとおして慶喜に大政奉還を建白。慶喜は、徳川中心の雄藩連合政策を模索、10月13日京都二条城に重臣を招集して諮問し、翌日に上表した。
大政奉還
15代将軍慶喜が朝廷へ政権を返上したこと。1867年10月、土佐・安芸両藩が土佐藩全藩主山内豊信をとおして慶喜に大政奉還を建白。朝幕二元体制に限界を感じていた慶喜は、10月14日、これを受け入れて上表した。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
幕府の滅亡
大政奉還 1867年10月、土佐藩主山内豊信が大政奉還を建白。慶喜は、徳川中心の雄藩連合政策を模索し、10月13日、京都二条城に重臣を招集して諮問し、翌日に上表した。 参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
第2次長州征討に失敗した幕府の権威は地に落ちたが、家茂のあと15代将軍となった徳川慶喜は、フランス公使ロッシュの協力を得て幕政の立て直しにつとめ、幕政改革を行った。中央集権的な政治体制を築くための職制の改変と、フランスから士官を招いての陸軍の軍制改革がその中心であった。
しかし、幕府は長州征討の処理をめぐって薩摩藩と衝突し、1867(慶応3)年、薩長両藩は武力倒幕を決意した。武力倒幕の機運が高まるなか、公武合体の立場をとる土佐藩では藩士の後藤象二郎(1838〜97)と坂本竜馬とがはかって、前藩主の山内豊信を通して、将軍慶喜に倒幕派の機先を制して政権の奉還を行うように勧めた。慶喜もこの策を受け入れて、10月14日、大政奉還を申し出て、翌日、朝廷はこれを受理した。これは、将軍からいったん政権を朝廷に返し、朝廷のもとに徳川氏を含む諸藩の合議による連合政権をつくろうという公議政体論に基づく動きで、これによって倒幕派の攻撃をそらし、徳川氏の主導権を維持しようとするねらいが込められていた。