大理国 (937年〜1254年)
937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。モンゴル帝国の雲南・大理遠征でモンゴル帝国に降伏し、フビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。
大理国
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
唐文化の波及と東アジア諸国
南詔(不明〜902)は、雲南地方において、唐と吐蕃の間隙をぬって、7世紀末〜8世紀前半にチベット・ビルマ系の人々が建国した。唐(王朝)文化をとりいれ、漢字を公用し、仏教の奨励に努めたが、唐が衰えると、しばしば四川地方に侵入して、唐を苦しめた。しかし10世紀初め、内紛によって滅亡した。その後、南詔に服属していた段氏が大理国(937〜1254)をたて、モンゴルのフビライに滅ぼされるまで存続した。
集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。
1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。フビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はフビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。
大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝(朱 元璋)は段氏による王国復活を認めず、この地は中国に併合され、南詔以来の独立国家の歴史はここに終った。