天明の飢饉 てんめいのききん( A.D.1782〜A.D.1787)
天明2(1782)年から1787年にかけての全国的飢饉。1782年は天候不順で凶作、1783年は春から冷雨が続き、さらに洪水、浅間山の大噴火のため大凶作となった。1784~6年も不作で慢性的な大飢饉となり、各地で餓死、行き倒れ、病死が続出、とくに陸奥でひどく、津軽藩などでは餓死者が十数万にも達し、住民が死に絶えた村もでたといわれる。荒廃と食糧の不足から百姓一揆が諸所に頻発、老中田沼意次失脚の一因となるとともに、東北諸藩の藩政改革推進の契機となった。
天明の飢饉
天明2(1782)年から1787年にかけての全国的飢饉。享保の飢饉、天保の飢饉と合わせて江戸時代の三大飢饉と称されている。1782年は天候不順で凶作、1783年は春から冷雨が続き、さらに洪水、浅間山の大噴火のため大凶作となった。1784~6年も不作で慢性的な大飢饉となり、各地で餓死、行き倒れ、病死が続出、なかでも関東、奥羽地方は草根、牛馬はもちろん犬猫、あるいは人肉すら食うという惨状を呈した。このため逃亡、騒動、一揆が諸所に頻発、老中田沼意次失脚の一因となるとともに、東北諸藩の藩政改革推進の契機となった。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
幕藩体制の動揺
幕政の改革
一揆と打ちこわし
1782(天明2)年の東北地方の冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火も加わって、多数の餓死者を出す江戸時代有数の大飢饉となった(天明の飢饉)。その被害はとくに陸奥でひどく、津軽藩などでは餓死者が十数万にも達したといわれ、住民が死に絶えた村もでたほどである。村々の荒廃と食糧の不足から数多くの百姓一揆が発生し、江戸・大坂などの都市では貧しい住民を中心とした激しい打ちこわしがおこった。