天狗党の乱 てんぐとうのらん A.D.1864〜
水戸藩尊攘過激派の天狗党が、常陸国筑波山で挙兵した事件。追討軍に追われて西へ逃れる途中で加賀藩に降伏し、藤田小四郎・武田耕雲斎ら多数が斬罪に処された。
天狗党の乱
水戸藩尊攘過激派の天狗党が、常陸国筑波山で挙兵した事件。追討軍に追われて西へ逃れる途中で加賀藩に降伏し、藤田小四郎・武田耕雲斎ら多数が斬罪に処された。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
真木和泉(1813〜64)らは孝明天皇が大和に行幸し、天皇自ら攘夷戦争の指揮をとる計画もたてたがこの長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩麿・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、ひそかに反撃の準備を進めていた。1863(文久3)年8月18日、薩摩·会津両藩兵が御所を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(1837〜91)らを京都から追放し、朝廷内の主導権を奪い返した(八月十八日の政変)。
この前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(1845〜64)、土佐藩士の吉村虎太郎(1837〜63)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変また、福岡藩を脱藩した平野国臣(1828〜64)、公家の沢宣嘉(1835〜73)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎(1842〜65)ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこったがいずれも失敗に終わった。