宇喜多秀家 うきたひでいえ( A.D.1572〜A.D.1655)
安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下の五大老の一人。利発で美しく、家督を継いだ幼少時から秀吉に重用され、秀吉の養女を妻とする。領内においては、岡山城下の整備や鹿児島湾の開拓にあたった。関ヶ原の戦いで敗軍の将となった秀家は薩摩まで落ち延び、3年間島津氏に匿われたのち、幕府へ出頭。伊豆八丈島に流され、50年もの流人生活を送って逝った。
宇喜多秀家
豊臣秀吉の一門衆として歴戦し武功をあげる。秀吉の死後も五大老の一人として豊臣政権の安泰に寄与。領内においては、岡山城下の整備や鹿児島湾の開拓にあたった。
秀吉の恩を忘れず、五大老から流人生活へ
順風すぎる出世と華々しい青年時代
備前・備中・美作に君臨していた宇喜多直家が没すると、当時10歳の秀家があとを継いだ。直家が織田信長に降っていたため豊臣秀吉が後見となり、ここから秀家の夢物語が始まる。利発で美しかった秀家は秀吉に気に入られ、やがて秀吉の養女・豪を妻とする。秀家は名実ともに秀上三門となった。秀家も期待に応えるべく働いた。四国攻め、九州攻め、小田原攻めに従軍し、朝鮮出兵では大将格として渡海。豊臣家の中核を担う五大老のひとりにも列せられる。
秀吉が没したあとの豊臣家の崩壊は早かった。加藤清正、福島正則、浅野幸長ら秀吉子飼いの武将たちもこぞって五大老筆頭の家康になびいた。石田三成の専横が許せなかったというが、秀家には関係のないことだった。自分はただ大恩ある「親」秀吉のために何をすべきなのか。その意志を貫き、関ヶ原の戦いでは1万6000余りの大兵力を動員し西軍の大将格として見事に戦った。敗軍の将となった秀家は薩摩まで落ち延びる。3年間島津氏に匿われたのち、幕府へ出頭。伊豆八丈島に流され、50年もの流人生活を送って逝った。
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、中央政府の組織の整備が十分に行われなかった。腹心の部下である浅野長政(1547〜1611)・増田長盛(1545〜1615)・石田三成(1560〜1600)・前田玄以(1539〜1602)・長束正家(?〜1600)を五奉行として政務を分掌させ、有力大名である徳川家康・前田利家(1538〜99)・毛利輝元(1553〜1625)・小早川隆景(1533〜97)・宇喜多秀家(1572〜1655)・上杉景勝(1555〜1623)を大老(隆景の死後五大老と呼ばれた)として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。
秀吉の対外政策と朝鮮侵略
幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。三成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家・島津義弘(1535〜1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。
対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561〜1624)・加藤清正(1562〜1611)·黒田長政(1568〜1623)らの諸大名で、三成と通じた会津の上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582〜1602)の内応により東軍の大勝となった。
家康は石田三成・小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家を八丈島に流し、西軍諸大名90家・440万石を改易(領地没収)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の諮代大名が取り立てられた。