安政の大獄 あんせいのたいごく( A.D.1858〜A.D.1859)
A.D.1858〜A.D.1859に行われた政治弾圧。主として井伊直弼の専制に反対する親藩・外様大名・志士らを処断、連座100余人に及ぶ。吉田松陰・橋本左内らが刑死した。
安政の大獄
A.D.1858〜A.D.1859に行われた政治弾圧。主として井伊直弼の専制に反対する親藩・外様大名・志士らを処断、連座100余人に及ぶ。吉田松陰・橋本左内らが刑死した。翌年桜田門外の変で井伊は暗殺される。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
政局の転換
安政の大獄 (1858〜59)
宮家 | 青蓮院宮(隠居・永蟄居) |
公卿 | 近衛忠煕(左大臣、辞官・落飾・慎)・鷹司政道(前関白、落飾・慎)・鷹司輔熙(右大臣、辞官・落飾・慎)・三条実万(前内大臣、落飾・慎)ら10名 |
諸侯 (大名) | 徳川斉昭(前水戸藩主、永蟄居)・徳川慶篤(水戸藩主、差控)・徳川慶喜(一橋家主、隠居・慎)・徳川慶勝(尾張藩主、隠居・慎)・松平慶永(越前藩主、隠居・慎)・山内豊信(土佐藩主、隠居・慎) |
幕臣 | 岩瀬忠震(作事奉行、隠居・慎)・永井尚志(軍艦奉行、隠居・慎)・川路聖謨(勘定奉行、隠居・慎) |
志士 | 橋本左内(越前藩士、刑死)・吉田松陰(長州藩士、刑死)・鵜飼吉左衛門・幸吉父子(水戸藩士、刑死)・梅田雲浜(元小浜藩士、獄死)・頼三樹三郎(頼山陽の子、儒者、刑死)ら50余名 |
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。
通商条約の調印は、開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し、弾圧した。この安政の大獄では、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834〜59)・長州藩士の吉田松陰(1830〜59)・若狭小浜藩士の梅田雲浜(1815〜59)・頼山陽の子三樹三郎(1825〜59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。しかし、この厳しい弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。
この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。