安禄山 ©Public Domain
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安禄山


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安禄山 あんろくざん A.D.705〜A.D.757

唐代のソグド系の武将。大燕国初代皇帝(在位756年 - 757年)。
玄宗(唐)の寵臣のひとりで北辺の3節度使(范陽はんよう平盧へいろ・河東)を兼任した。楊貴妃の一族である宰相の楊国忠と対立、755年、楊国忠打倒を掲げて挙兵し、洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝だいえんこうていと自称したが病気となり子の安慶緒あんけいしょに殺された。

安禄山

安史の乱の指導者。ソグド系突厥人の武将。玄宗の信任を得て東北辺の3節度使を兼ねたが、楊国忠との権力争いに敗れると、755年に挙兵して洛陽をおとしいれ、翌年大燕皇帝を称した。長安も占拠したが、病気となり、子の安慶緒に殺された。

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宰相になれず「安史の乱」を起こす

安禄山は、中央アジアのトルコ系遊牧民で、父はソグド人、母は突厥人。もとは6ヶ国語を話せる商人で、唐(王朝)節度使として頭角を現した。節度使は、玄宗(唐)が辺境地域においた募兵指揮官である。

超肥満の安禄山は、人に取り入るのが得意だった。爽やかな弁舌と賄賂で昇進。平盧へいろ范陽はんよう河東かとうの3節度使の兼任となった。豊満な腹に何が入っているかと玄宗に問われた安禄山は、「忠義心のみが入っています」と答えたという。

音楽や舞踏にもすぐれた安禄山は、楊貴妃にも好かれ、子のいない楊貴妃の養子になった。
しかし安禄山は、無頼派の楊国忠ようこくちゅうとは激しく対立した。楊国忠が宰相になると、「専横許すまじ」として20万人の兵を挙げた。「安史の乱」の勃発である。安禄山は洛陽を征圧。皇帝を名乗り国号を「大燕」とした。

しかし愛妾の子安慶恩あんけいおんを偏愛したため、それを恨んだ太子の安慶緒あんけいちょによって、皇帝になった翌年殺害された。

安禄山の軽快なソグド人式舞踊(故旋舞こせんぶ)は、玄宗(唐)や楊貴妃を楽しませたが、安禄山の体重は200Kgほどあり、腹は膝まで垂れ下がっていた。安禄山用に特別に力の強い馬があてがわれたという。

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安史の乱を起こした北方の実力者

軍人。ソグド人の父と突厥人お母をもち、6ヶ国語に通じていた。並外れた才覚と遊泳術により玄宗(唐)の信任を得て、平盧へいろ范陽はんよう河東かとうの3節度使を兼ねるまでになる。李林甫の失脚後、楊国忠と激しい権力争いを演じたあげく、755年に反乱を起こした。

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東アジア世界の形成と発展

東アジア文化圏の形成

玄宗の政治と唐の衰退

玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣ちょうしんを重用し、愛妃楊貴妃ようきひとの愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山あんろくざん(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽はんよう平盧へいろ・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠ようこくちゅうが宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝だいえんこうていと自称するにいたった。玄宗はへ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。

この反乱は、安禄山の死後、子の安慶緒あんけいちょ、さらに部将史思明ししめい父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となったが、ウイグルの援助などにより、ようやく鎮圧された。しかし、安史の乱は唐(王朝)繁栄を一挙にくつがえし、唐(王朝)の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。

隋唐の社会
国際性

蕃将ばんしょうと呼ばれる非漢族出身の将軍(タラス河畔の戦いで敗れた高句麗出身の高仙芝こうせんしやソグド系の安禄山あんろくざんはその一例)が活躍し、インドからは密教の高僧が相ついで渡来したほか、日本や新羅など東アジアの諸国からも多数の留学生や商人が来訪するなど、その国際性は中国歴代王朝のなかでも極立っている。日本の正倉院の宝物に西域の文化的影響がみられるのは、唐の国際性の反映である。

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子女

  1. 太子安慶宗
  2. 晋王安慶緒
  3. 安慶恩
  4. 鄭王安慶和
  5. 安慶余(安慶餘)
  6. 安慶則
  7. 安慶光
  8. 安慶喜
  9. 安慶祐
  10. 安慶長

参考 Wikipedia

同時代の人物

長屋王(684〜729)

飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。天武天皇の孫。高市皇子の長男。宮内卿・式部卿・大納言・右大臣・左大臣などを歴任。養老7年「三世一身の法」を施行し、律令制の維持をはかる。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した(長屋王の変)。和歌が「万葉集」に5首、漢詩が「懐風藻」にのこる。

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