対ソ干渉戦争( A.D.1918〜A.D.1922)
内戦と一体となっておこなわれた外国軍の軍事干渉戦争。1917年12月、英仏両国は秘密協定を結んで反革命派を支援し、18年4月からロシア領に侵入、18年8月には日・米がチェコ軍団救出を口実にシベリアに出兵した。干渉戦争は第一次大戦後も続いたが、ソヴィエト政権は赤軍の強化と戦時共産主義体制により対抗、これを退けた。
対ソ干渉戦争
内戦と一体となっておこなわれた外国軍の軍事干渉戦争。1917年12月、英仏両国は秘密協定を結んで反革命派を支援し、18年4月からロシア領に侵入、18年8月には日・米がチェコ軍団救出を口実にシベリアに出兵した。干渉戦争は大戦後も続いたが、ソヴィエト政権は赤軍の強化と戦時共産主義体制により対抗、これを退けた。
シベリア出兵:ソヴィエト政権打倒のため、シベリアでおこなわれた干渉戦争。1918年5月、チェコ軍団の反乱を契機に、日本もアメリカの提案を受けて出兵した。日本は東部シベリアでの勢力圏拡大を企図、英米仏軍の撤退後も22年までシベリアに駐兵を続けたが、目的は達成できなかった。
シベリア出兵:1918年8月、日・米・英・仏が、ロシア革命に干渉する目的で、ヨーロッパからシベリアのウラジヴォストークに移動・集結したチェコスロヴァキア兵救出を名目として、20年まで出兵。日本のみ1922年まで出兵し、最大7万2000人の兵員を駐留。戦費は10億円に達し、戦死者3000人を出した。
二つの世界大戦
第一次世界大戦とロシア革命
ソヴィエト政権と戦時共産主義
革命政権を警戒する連合国 はロシア軍脱落後の東部戦線を再建するという名目で軍隊を派遣し、旧帝政派軍人など反革命派の反乱を援助しつつ対ソ干渉戦争に乗りだした。1918年5月、シベリアに抑留されていたチェコ軍団の救援を名目にイギリス・フランス・日本・アメリカなどの軍隊がウクライナ・カフカス・シベリア方面からロシア領内に侵入した。これに対してソヴィエト政府はトロツキーのもとで赤軍を組織して反撃し、チェカ Cheka (非常委員会)を設置して反革命運動を取り締まった。戦争を戦い抜くために戦時共産主義と呼ばれる厳しい統制経済政策がとられた。農民からは強制的に穀物を挑発し、工業の国有化がよりいっそう進められた。レーニンは総戦力で経験した統制経済によって社会主義が実現されると考えたのである。
シベリア出兵(1918年) 連合軍はソヴィエト政権打倒をめざし、反革命の白軍を支援するためソヴィエト領内に軍隊を侵入させ、日本軍もシベリアに派遣された。図はそのウラジヴォストーク港上陸の光景を描く。 参考: 山川 詳説世界史図録