尊号一件 そんごういっけん
1789年、光格天皇が、皇位についていない父閑院宮典仁親王に、太上天皇(上皇)の称号を贈ろうと幕府に打診したが、松平定信の反対で実現しなかった事件。
尊号一件
1789年、光格天皇が、皇位についていない父閑院宮典仁親王に、太上天皇(上皇)の称号を贈ろうと幕府に打診したが、松平定信の反対で実現しなかった事件。
幕藩体制の動揺
幕政の改革
寛政の改革
尊号一件
さまざまな公事や神事を復古的に再典し、京都御所の紫宸殿と清涼殿を平安時代の内裏と同じものに造営するなど、天皇権威の強化をはかっていた朝廷は、1789(寛政元)年、光格天皇(在位1780〜1817)の実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に伝えた。しかし松平定信は、天皇の位につかなかった者に天皇譲位後の称号である太上天皇の尊号を贈ることは道理に合わないと反対した。朝廷は、1791(寛政3)年に参議以上の公卿に尊号宜下の可否を問い、圧倒的多数の賛成を得て、翌年、幕府に強く尊号宜下の許可を求めた。しかし、定信は要求を拒絶し、1793(寛政5)年、武家伝奏と議奏を江戸に呼んで責任を追及し処罰した。
- 寛政の改革 – 世界の歴史まっぷ
光格天皇
第119代光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。
参考 Wikipedia