島津斉彬 しまづなりあきら( A.D.1809〜A.D.1858)
薩摩藩主。殖産興業を推進し、洋式工場群(集成館)を設置。藩政改革派を伴い、幕府政治にも関与。将軍継嗣問題では徳川慶喜を推す。
島津斉彬
- 薩摩藩主。殖産興業を推進し、集成館を設置。藩政改革派を伴い、幕府政治にも関与。将軍継嗣問題では徳川慶喜を推す。
- 集成館:薩摩藩の兵器製造を中心とした洋式工場群。1852年、鹿児島磯ノ浜に反射炉・溶鉱炉・兵器工場・ガラス製造工場を設け、57年に集成館と命名。
参考 日本史用語集―A・B共用
富国強兵に努めた薩摩の開明派君主
幕末情勢をリードした遅咲きの薩摩藩主
島津斉彬が薩摩藩主となったのは43歳。嫡子が成人すれば家督を譲るのが通例の当時において、異例ともいうべき遅い藩主交代であった。西洋事情に明るく進取の気性に富んだ斉彬は藩内の保守層から警戒され、藩主就任を妨げられていたのである。藩主となる以前から、すでにその英明を広く知られていた。福井藩主の松平慶永(春嶽)は「英明は近世第一、水戸烈公(徳川斉昭)、土佐の山内豊信(容堂)、佐賀の鍋島直正(閑雙)などの及ぶところではない。実に英雄と称すべき」と称賛している。
斉彬は、曾祖父の島津重豪の影響で西洋文明に傾倒し、17歳のときには、ドイツ人医師シーボルトから医学と物理学を学んだ。また、西洋の砲術や科学技術にも興味をもち、文献の輸入・翻訳に努めた。こうした斉彬の姿勢は、藩財政を圧迫する浪費と見なされ、父の島津斉興をはじめとする保守層の警戒を呼んだ。斉興の側室の由羅が産んだ島津久光を次期藩主に立てようと画策する保守派の動きは1849年(嘉永2)に斉彬派藩士を大量粛清し、「お由羅騒動」と呼ばれる御家騒動に発展する。斉彬は幕府に斡旋を依頼、不行届を責められた斉興が隠居願いを提出し、ようやく斉彬の藩主就任が実現した。藩主就任後、外圧にさらされる日本にあって富国強兵が急務と考え、反射炉建設に着手。溶鉱炉、蒸気機関製造所、洋式紡績所なども設置し、一帯は「集成館」と名づけられ、最先端の技術をもつ洋式工業団地となる。
さらに、自藩のみならず幕政の改革も必須とみていた斉彬は、将軍継嗣問題および日米修好通商条約の対処をめぐり、守旧派の大老である井伊直弼と対立。井伊による反対派弾圧に対し、抗議のために上洛計画を進めていた矢先に病に倒れた。わずか7年余の在職期間だったが、数多くの実績をあげ、西郷や大久保といった下士階級出身の有能な人物を抜擢。明治維新へとつながる変革期に薩摩が長州と並んで重きを成したのは、斉彬の先見の明によるところが大きかった。日本の近代化にかけた斉彬の遺志は、薩摩藩の志士たちによって受け継がれることとなる。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
経済近代化と雄藩のおこり
改革が比較的うまくいった薩長土肥など西南の大藩のほか、伊達宗城(1818-92)の宇和島藩、松平慶永(春嶽、1828-90)の福井(越前)藩などでも、有能な中下級藩士を藩政の要職に抜擢し、三都の商人や領内の地主・商人と結びついて積極的に藩営貿易などを行い、藩権力を強化した。これらの諸藩は、危機に直面して有能な中下級藩士を藩政に登用し、藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、さらに藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、それにより軍事力の強化をはかって藩権力を強化しようとした。これらの藩はのち雄藩として、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる。
藩政改革
薩摩(鹿児島) | 藩主:島津重豪 調所広郷 島津斉彬 | 500万両の負債を無利息250年という長期年賦返済で棚上げ。 | 奄美3島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化。 | 琉球王国との貿易増大。 島津斉彬は洋式工場群(集成館)を建設。 |
長州(萩) | 藩主:毛利敬親 村田清風 | 銀8.5万貫(約140万両)の負債を37年賦返済で棚上げ。 | 紙・蝋の専売制を改革。 | 下関に越荷方をおいて、廻船の積荷の委託販売をして利益を得る。 |
肥前(佐賀) | 藩主:鍋島直正 | 均田制を実施し、本百姓体制を再建 | 陶磁器の専売制を進める。 | 日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど藩権力を強化。 |
土佐(高知) | 藩主:山内豊重 改革派「おこぜ組」 吉田東洋 | おこぜ組が財政緊縮による藩財政の再建につとめるが失敗。 | 吉田東洋が紙・木材などの専売を強化する。 | |
水戸 | 藩主:徳川斉昭 藤田東湖 会沢安 | 全領の検地、弘道館を設立。 | 藩内保守派の反対で改革派不成功。 | |
宇和島 | 藩主:伊達宗城 有能な中下級藩士 | 紙・楮・蝋の専売強化。 | 村田蔵六を招いて兵備の近代化を図る。 | |
越前(福井) | 藩主:松平慶永(春嶽) 橋本左内 由利公正 | 教育の普及や軍備改革を行い、貿易振興策によって財政を再建 |
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘(1819〜57)はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。また、幕府は越前藩主松平慶永(1828-90)·薩摩藩主島津斉彬(1809〜58)·宇和島藩主伊達宗城(1818〜92)らの開明的な藩主の協力も得ながら、幕臣の永井尚志(1816〜91)·岩瀬忠震(1818〜61)・川路聖謨(1801〜68)らの人材を登用し、さらに前水戸藩主徳川斉昭(1800〜60)を幕政に参与させた。
政局の転換
ハリスから通商条約の調印を迫られていたころ、幕府では13代将軍家定(1824〜58)に子がなかったため、その後継を誰にするのかという将軍継嗣問題が大きな争点となっていた。越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信ら雄藩の藩主は、「年長・英明」な将軍の擁立をかかげて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837〜1913)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のち徳川家茂、1846〜66)を推して対立した。
慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩が協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争った。結局通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。
通商条約の調印は、開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し、弾圧した。この安政の大獄では、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834〜59)・長州藩士の吉田松陰(1830〜59)・若狭小浜藩士の梅田雲浜(1815〜59)・頼山陽の子三樹三郎(1825〜59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。しかし、この厳しい弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。
この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。