左宗棠 (
A.D.1812〜A.D.1885)
清末の政治家。楚軍を率いて太平天国とたたかった。1866年に福州に中国最初の近代的造船所を建て、洋務運動の先駆となった。陝甘総督として、新疆(東トルキスタン)のイスラーム教徒の反乱を平定。ロシアとの国境をめぐるイリ事件では武力対決を主張した。
左宗棠
清末の政治家。楚軍を率いて太平天国とたたかった。1866年に福州に中国最初の近代的造船所を建て、洋務運動の先駆となった。陝甘総督として、東トルキスタンのイスラーム教徒の反乱を平定。ロシアとの国境をめぐるイリ事件では武力対決を主張した。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
ロシアの東方進出
ロシアは、清朝に対する新疆(東トルキスタン)=イスラーム教徒の反乱 ❷ (1864〜78)を機に、居留民保護を名目として、1871年にイリ地方を占領した。反乱は、欽差大臣 ❸ として清軍の指揮をとった左宗棠(1812〜85)の奮闘などにより鎮圧されたが、反乱終結後もロシアは同地方から撤兵しなかったため、露清間の紛争となった(イリ事件)。この紛争は結局、ロシアに対しても強い姿勢で臨んだ左宗棠の努力がみのり、1881年イリ条約が結ばれ、ロシアに新疆での通商権を認めるかわりに、イリ地方は清朝に返還された。
太平天国の興亡
太平天国は、1854〜55年の全盛期には300万人を数えたといわれ、華北や長江上流に軍を進めたが、天京政府首脳部の内紛によって衰えはじめ ❸ 、一方、清朝側では、漢人官僚が郷里で組織した地主階級を中核とする義勇軍(郷勇)が各地で結成され、弱体な清朝正規軍(八旗・緑営)にかわって、太平軍と激戦を展開するようになった。曾国藩(1811〜72)の率いる湘軍(湖南省)、李鴻章(1823〜1901)の率いる淮軍(安徽省)、左宗棠の率いる楚軍(湖南省)などが代表的な郷勇である。また、欧米列強も当初は太平天国軍に同情的であったが、アロー戦争終結後は清朝援護に転じ、最初はアメリカ人ウォード Ward (1831〜62)が、彼の戦死後はイギリス軍人ゴードン Gordon (1833〜85)が指揮する傭兵常勝軍 Ever-victorious Army は清軍に協力した。こうして太平軍はしだいに追いつめられ、1864年6月には天王洪秀全が病死し、翌月には天京が陥落して、太平天国は滅亡した。
洋務運動
アロー戦争後の清朝では、幼年の同治帝(位1861〜74)にかわって、叔父の恭親王奕訢(1832〜98, 初代総理衙門長官も務める)が朝廷の中心となり、従来の排外主義を転換した。そのため外国との和親や西欧の進んだ技術の摂取と、近代産業の育成と富国強兵による国家体制の再建がはかられた。このような試みを洋務運動という。洋務運動を主導したのは、太平天国の平定に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠や張之洞(1837〜1909)らの漢人官僚であり、彼らは富国強兵をめざして、西洋の学問や技術を導入した。主な事業としては、軍需産業を中心とする近代的兵器工場の設立 ❶、海軍の創建(李鴻章の北洋艦隊 ❷、左宗棠の福建艦隊など)、紡績工場・汽船会社の設立、電信事業、鉱山の開発、鉄道の敷設、外国語学校の設立などが推進された。洋務運動が推進された同治年間は、列強の進出も一段落して、内外ともに一時的な安定がもたらされたので、この時期を同治中興と呼んでいる。しかし洋務運動は、「中体西用」をモットーとするように、中国の伝統的道徳倫理を根本としながら、西洋の科学技術を利用するものであって、政治体制の改革や中国社会全体の近代化をめざすものではなかった。
また、近代産業の導入も国家・官僚の主導でおこなわれたため、設立された官営または半官半民の企業は、営業独占権など強力な特権をもち、かえって民間企業の成長を阻害する結果となった。そのうえ官僚と企業の結びつきは、洋務運動が官僚個人の私的蓄財に利用されるという側面をもつことになった。こうしたことから、洋務運動は十分な成果をあげえず、やがて清仏戦争(1884〜85)と日清戦争(1894〜95)の敗戦によって挫折に追いこまれた ❸ 。
❶ 近代的兵器工場:李鴻章による上海の江南製造総局(軍需工場)、左宗棠による福州船政局(造船所)、張之洞による大冶鉄山・漢陽鉄廠(のちの漢冶萍公司)などが代表的なものである。
❷ 北洋艦隊:李鴻章が洋務運動の時期に、淮軍を基盤として建設した近代的な海軍。
❸ 洋務運動の挫折:清仏戦争では福建艦隊が、日清戦争では北洋艦隊が壊滅し、洋務運動の象徴であった海軍は無に帰した。