平忠盛 (
A.D.1096〜A.D.1153)
正盛の子。清盛の父。山陽・南海(瀬戸内)の海賊討伐の功により、白河・鳥羽上皇の寵を得て昇殿を許され、殿上人となる。鳥羽院領肥前国神埼玉荘の管理を委ねられたのを機に、博多で日宋貿易に着手した。
平忠盛
正盛の子。清盛の父。山陽・南海(瀬戸内)の海賊討伐の功により、白河・鳥羽上皇の寵を得て昇殿を許され、殿上人となる。鳥羽院領肥前国神埼玉荘の管理を委ねられたのを機に、博多で日宋貿易に着手した。
平氏全盛期の基礎をつくった武将
平安後期の武将。平正盛の長男。平清盛の父。白河上皇・鳥羽上皇の寵を得て累進した。正四位上。播磨・伊勢・備前などの守を歴任。
山陽・南海の海賊を討って功をあげ、内昇殿を許され、刑部卿に進んだ。また日宋貿易に関係して財を成し、平氏繁栄の基礎をつくった。
中世社会の成立
院政と平氏の台頭
保元の乱・平治の乱
武家の棟梁としての源氏は、東国に勢力を広げつつも、源義家の後の源義親が流された出雲で反乱をおこし(源義親の乱 1107〜1108)、追討されるなどしてやや勢いを失うことになった。これにかわって院と結んで目覚ましい発展ぶりを示したのが、伊勢・伊賀を地盤とする桓武平氏の一族である。
なかでも平正盛は、伊賀国の荘園を白河上皇に寄進して政界進出の基盤を築き、源義親を討って名をあげ、受領や検非違使となって伊勢平氏の地位を高めた。正盛の子平忠盛は瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得、受領として千一体の千手観音像を安置する得長寿院を造営したことで、殿上に昇ることが許され(殿上人)、武家という貴族の身分を獲得し、院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力をさらに飛躍的に伸ばしたのが、忠盛の子平清盛である。