広島城
- 所在地:広島県広島市
- 城の形態:輪郭式の平城
- 天守の形態:五重・五階、望楼型 連結式
- 築城年:1589(天正17)年
- 築城者:毛利輝元
- 文化財指定区分:国指定史跡
- 主な遺構:石垣、堀
- 主な城主:毛利氏、福島氏、浅野氏
広島城
毛利輝元が築いた、河口に建つ平城。自然地形を生かせないため、広い堀を何重にも巡らして、多くの櫓を築くことで防御を補った。第二次世界大戦前まで残っていた五重天守は、古式な優美さをもっていたが、ほかの建物とともに原爆で喪失した。遺構は石垣と堀だけであるが、天守や二の丸の建造群などが復元され、華麗な姿を取り戻しつつある。
城データ
広島城 城データ
所在地 | 広島県広島市 |
交通アクセス | JR広島駅から徒歩25分 |
城の形態 | 輪郭式の平城 |
天守の形態 | 五重・五階、望楼型 連結式 |
築城年 | 1589(天正17)年 |
築城者 | 毛利輝元 |
文化財指定区分 | 国指定史跡 |
主な遺構 | 石垣、堀 |
別称 | 鯉城、在間城、当麻城 |
主な城主 | 毛利氏、福島氏、浅野氏 |
太田川河口のデルタ地帯に築かれた広島城。太田川を天然の堀としたが、地盤が弱いため難工事となった。現在は埋め立てにより市街地が海側に拡大されている。
新時代への対応を図った巨大な平城
広島城年表
1589年 (天正17) | 毛利輝元が築城を開始 |
1591年 (天正19) | 毛利輝元、広島城に入城 |
1592年 (文禄1) | 豊臣秀吉が広島城に来る |
1599年 (慶長4) | 城と城下町完成 |
1600年 (慶長5) | 関ヶ原の戦いで毛利輝元の西軍は敗北、輝元は周防・長門に移り、福島正則が城主に |
1617年 (元和3) | 洪水により大被害 |
1619年 (元和5) | 無断修築が原因で福島正則が広島を去る。浅野長晟が入城 |
1620年 (元和6) | 別邸庭園「縮景園」の整備開始 |
1758年(宝暦8) | 城下で宝暦の大火発生。城の一部も燃える |
1782年(天明2) | 三の丸内に学問所が開かれる |
1864年 (元治1) | 第一次長州戦争が起こり、広島に幕府軍の本営が置かれる |
1871年(明治4) | 廃藩置県。本丸内に広島県朝が置かれる 本丸内に鎮静鎮台第1分英が置かれたため、県庁移転 |
1873年 (明治6) | 本丸内に第5軍管区広島鎮台が置かれる |
1874年 (明治7) | 本丸御殿が焼失、廃城 |
1894年 (明治27) | 日清戦争始まる。本丸に大本営が置かれる |
1911年 (明治44) | 外堀が埋められる |
1931年(昭和6) | 天守が旧国宝指定 |
1945年 (昭和20) | 原爆投下により、天守倒壊、中御門、二の丸の建物などが焼失 |
1951年 (昭和26) | 天守台に仮設天守建造 |
1958年 (昭和33) | 天守が鉄筋コンクリート製で外観復元される |
1994年 (平成6) | 二の丸の復元工事が完成 |
時代の流れにあわせて築城
中国山陽道最大の城郭広島城。戦国時代から江戸時代にかけては戦火にさらされることのない、平和の象徴のような城であった。しかし昭和になってから広島城は戦争に巻き込まれることになる。広島城の築城を手がけたのは毛利元就の孫にあたる毛利輝元。
戦国時代、安芸の小規模な領主から身を起こしたのが「戦国最高の知将」と評される毛利元就だ。元就は1代にして中国地方のほぽ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大。四国、九州の一部にまで及ぶ9か国を平定し、120万石の大大名にまで成長した。息子の毛利隆元に家督を譲ったものの、その後も影響力を発揮し続けた元就が75歳で死去。元就の子隆元が早世したため、孫の毛利輝元が跡を継いだ。毛利氏は長年、安芸の吉田郡山城を居城としていたが、交通の便が悪かったことから、輝元の時代に廃城を決め、領国の中心であり、水陸双方の交通要地であった瀬戸内の広島湾岸に城郭と城下町の形成を決めたのだ。
1589年(天正17)、輝元は広島城の築城を開始する。広島城は豊臣秀吉の聚楽第を模したとされる。輝元が秀吉の招きに応じて上洛した際、緊楽第や大坂城を見て、その豪華で勇壮な様子や秀吉の支配のありかたに感銘を受けた。そこで新たな城と城下町を造るにあたり、聚楽第や秀吉の手腕を取り入れたのだという。
デルタ地帯に築かれた巨城
広島城が立つ地は、中国山地から流れる太田川河口にひらけたデルタ地帯である。築城時には「島普請」と呼ばれるほど大規模な土地造成が行われた。島普請には100万もの人員が動員され、中州を堤防で取り囲み、土盛りや堀の造成をして大坂城にも匹敵するような大城郭を築いたのだ。
2年後の1591年(天正19)、まだまだ工事中ではあったが、輝元は吉田郡山城を出て早速広島城に入城した。家臣らも各々屋敷を構え、商人を呼び寄せるなど、着々と城下町が形成されていった。翌1592年(文禄1)には、九州の名護屋へと赴く途中の豊臣秀吉が広島へと足を運んでいる。御殿をみた秀吉は、「この建築は聚楽にも劣らず」と規模の壮大さに感嘆の声をもらしたという。敬愛する秀吉にお褒めの言葉を賜った輝元はさぞかし誉れを感じたことだろう。秀吉没後の1599年(慶長4)、城と城下町の造成は一応の完成をみせた。正月には落成祝賀の宴が盛大に催されている。この時期が輝元にとって栄光の瞬間だったのではないだろうか。しかしそんな時期は長く続かない。
翌1600年(慶長5)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こる。輝元はこの合戦に西軍の総大将として担がれた。大将格の石田三成が、大谷吉継の進言により総大将を辞退したためである。東軍総大将の徳川家康に次ぐ実力をもつ輝元をとの声や安国寺恵瓊の説得に負け、輝元は総大将への就任を決めたのだ。しかし、自らが総大将を務めた合戦で敗北を喫し、領土を周防・長門の防長2国へと大幅に削られてしまう。この決定により築城主であった輝元は広島城を去り、長門萩へと移ったのだ。
250年続く浅野氏の時代
代わって広島城主となったのは、東軍の勝利に大きく貢献した福島正則であった。安芸広島と備後柄49万8000石の大封を得て、広島城入城となった。正則は、領内の巡見・検地を行って結果を農民にも公開し、年貢負担を少なくするように再計算するなど善政をしき、藩内は一時の平和を取り戻した。しかし正則の状況は次第に悪くなる。もとは秀吉と非常に近い関係であった正則は、江戸幕府に忠実に仕える一方で、豊臣氏をたてることも忘れなかった。そのため徐々に幕府との関係が微妙になり、幕府からは飼い殺しにされてしまう。その状態を不満に思った正則は幕府に反抗。関係は加速度的に悪化していった。
正則が行った広島城や城下町の大規模改修も幕府や家康の心証を悪くする。正則は石垣職人集団「穴太衆」を雇い入れ、輝元時代に不十分だった城の整備に本腰を入れた。外郭が整備されたことで、広島城は内堀、中堀、外堀をもつ1km四方に及ぶ広大な城となったのだ。あわせて街道の整備も行ったため、城下町も大いに発展。藩内からは喜ばれたものの、反乱の準備とも見えたのか家康は激怒。1609年(慶長14)には正則は謹慎を申し渡されている。それでもまだ家康が生きているころは大きな問題にはならなかった。家康死後の1619年(元和5)、2年前に起こった台風による大規模水害で破壊された、本丸、二の丸・三の丸及び石垣などを幕府に無断で修理。これが武家諸法度違反に問われた。実は正則は以前から届出をしていたが、これまでの経緯もあって認められなかったのである。条件付きで一度は許されたものの、その後も正則と幕府の間でいざこざが続き、ついに安芸・備後を没収されてしまった。
同年、紀伊から浅野長晟が安芸・備後42万6000石で広島城へと人った。徳川氏と関係の深い浅野氏のもと、12代約250年にわたって平和な時代が続き、明治維新を迎えた。幕末には2度の長州征討の本営地となっているが、最後には薩長などとの連合へとこぎつけ、倒幕軍の主力として大政奉還を迎えた。
城主こそ数度変遷したものの、戦国・江戸時代を通じて戦火にさらされず、平和なままに明治時代へと突入したのだ。明治維新後には広島鎮台となり、日清戦争では大本営が置かれ、明治天皇を迎えるなど、その後も広島城は歴史のなかに何度も登場する。
しかし1874年(明治7)には広島城本丸御殿が焼失。これをもって一応の廃城となった。この後1911年(明治44)には外堀が埋め立てられて市電の軌道敷となった。天守だけは残っていたが、第二次世界大戦における米軍の原爆投下によって倒壊。内堀と本丸・ニの丸の石垣を残すのみとなった。現在、天守は外観復元され、二の丸表御門なども復元されている。