府兵制
府兵制は、兵農一致にもとづく兵制で、西魏の丞相宇文泰によって創始され、北周にうけつがれ、均田制とともに隋をへて唐で整備された。均田農民にとって府兵の負担はきわめて重く、安史の乱後均田制とともに府兵制も崩壊し、740年に完全に停止され、職業兵士を雇用する募兵制に移行した。
府兵制
東アジア世界の形成と発展
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律令体制
西魏に始まる兵制で、兵農一致を特色とした。唐では各地に折衝府を設け(最も多い時で630余ヶ所にのぼり、とくに長安、洛陽の周辺に集中しておかれた)、おおむね丁男3人に1人の割合で府兵を選び、3年に1回農閑期に訓練を施した。府兵には、都の警備にあたる衛士や辺境の防衛にあたる防人として勤務する義務があり、その服務期間中は租庸調を免除されたが、武器・衣服などは自弁せねばならず、その負担はきわめて重かった。
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北方民族の活動と中国の分裂
五胡十六国と南北朝
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玄宗の政治と唐の衰退
韋后を倒して即位した玄宗(唐)は、治世の前半は意欲的に政治に取り組み、開元の治と称される唐(王朝)全盛期をもたらした。都の長安は空前の賑わいを見せ、文化は爛熟期を迎えた。しかし、この繁栄の裏側では深刻な社会問題が発生しており、律令体制のほころびが明らかになっていたのである。
その第一は、均田農民の没落である。前述のように均田農民にとって府兵の負担はきわめて重く、すでに則天武后のころから、均田農民が土地を捨てて逃亡する逃戸の増加が問題となっていた。このため開元中期には、逃戸をあらたに戸籍につける括戸と呼ばれる政策が財務官僚宇文融によって推進されたが、結局は挫折に終わった。こうして府兵制は、開元後期には実質的に崩壊し、740年に完全に停止され、健児と呼ばれる職業兵士を雇用する 募兵制に移行した。