徳川家斉 とくがわいえなり( A.D.1773〜A.D.1841)
江戸幕府11代征夷大将軍(在職1787〜1837)。大御所(1837〜41)三卿の一橋家から将軍となる。松平定信を登用して幕政改革をおこなう(寛政の改革)。1837年に将軍職を家慶にゆずったのちも、大御所として死ぬまで幕府の実権を握り続けた。大御所時代の政治は腐敗し幕府の威信は失墜した。
徳川家斉
(在位1787〜1837)
主な幕僚:老中首座・将軍補佐役:松平定信
11代将軍(在職1787〜1837)。三卿の一橋家から将軍となる。松平定信を登用して幕政改革にあたらせたが、改革後も政治の実権を握り、大御所時代を現出する。
大御所時代に君臨した、御三卿将軍
御三卿からの将軍抜擢 寛政の改革
1786年(天明6)、10代将軍家治の死去にともない、御三卿のひとつ一橋家出身の徳川家斉が、翌年15歳で将軍となった。家斉は、行政改革の道を歩み始める。先代の家治時代に権勢を誇った老中の田沼意次を解任し、吉宗の孫に当たる御三卿田安家出身の松平定信を老中首座に据えた。1788年には、定信を将軍補佐役にも取り立てて、二人三脚のかたちで政治改革を行っていく。風紀の取り締まりや文武の奨励、緊縮財政の推進といった政策は、「寛政の改革」と称される。8代吉宗が行った享保の改革の復活であった。実務的な功績は松平定信によるが、家斉もまた改革の頂点に立つ指導者として果たした役割は大きい。家斉は元来文武に秀でた将軍で、日常の公務を真摯に務める勤勉な人だったという。しかし、幕政の改革が続く中で、しだいに家斉は変貌していった。
寛政の遺老の努力 大奥の最盛期
1793年(寛政5)、家斉は定信の老中職を解任する。家斉が実父の一橋治済に大御所の称号を与えようとした際、定信に猛反対されたことに、家斉が憤慨したのが原因だという。また、漁色家で知られた家斉が、天井知らずに膨張していく大奥の予算を削ろうとする定信をうるさく思い始めたからともいう。しかし、定信と寛政の改革をともに推進した牧野忠精などの「寛政の遺老」と呼ばれた重臣は残ったため、定信失脚後も改革路線はしばらく継承された。ただ、大奥の予算増加は、質素倹約の奨励だけでは抑えられない。家斉の漁色は尋常ではなく、その生涯に40人以上の側室を置き、50人以上の子女をもうけたといわれている。将軍の子だけにその養育費は莫大で、大奥最盛期の華やかさの裏側で幕府財政は悪化、ほとんど破綻していた。
腐敗していく幕府 花開く化政文化
1817年(文化14)、寛政の遺老のひとり松平信明が死ぬと、なんとか維持されてきた改革政治の様相は一変する。老中となった水野忠成は、田沼意次派だった水野忠友を義父にもつ、改革派とは正反対の人物。定信以来、堅実で優秀な側近に囲まれて治世を行ってきた家斉は、ある意味で自ら政治に出る幕がなく、この頃には政治への興味を失っていた。そのため、水野忠成の専制を批判することもなく、家斉はただ遊興に耽る毎日を送るようになる。水野忠成は、田沼時代を凌駕するほどの賄賂政治を行ったといい、政治は傾いた。政治的な退廃と裏腹に、もしくは呼応するように、化政文化と呼ばれる江戸時代後期の爛熟した文化が大きく花開いた。風紀を取り締まり、綱紀を粛正し、質素倹約を旨とする改革政権下では、華やかな化政文化は創出されなかったであろう。家斉の贅沢で派手な暮らしが化政文化に華を添えたことには疑いのないことであった。1841年(天保12)、家斉は徳川将軍歴代最長の在位50年と、4年の大御所時代を閉じて死去。家斉の死去で家慶が12代将軍としての実権を握ったのは、すでに47歳のときだった。
幕藩体制の動揺
幕政の改革
寛政の改革
寛政の改革一覧
特色 | ①享保の改革を理想とした復古理想主義 ②農村の復興と都市政策の強化 ③士風の引き締め、幕府権威の再建 |
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政策 | 農村復興 | 囲米・社倉・義倉を設置(1789発令) 出稼ぎ制限、旧里帰農令(1790) |
都市 | 勘定所御用達の登用(江戸の豪商10名) 江戸石川島人足寄場に無宿人を収容(1790) 七分積金の制度化(1791) |
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財政 | 倹約令(1787) 棄捐令(1789、旗本・御家人の救済) |
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思想 出版統制 | 寛政異学の禁(1790)寛政の三博士の登用 出版統制令(1790) ・林子平への弾圧:『三国通覧図説』『海国兵談』(1792) ・洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、出版元の蔦屋重三郎らを弾圧 |
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その他 | 海防政策:ラクスマンの来航を機に、幕府は諸藩に江戸湾・蝦夷地の海防の強化を命令(1792〜93) | |
結果 | 一時的幕政が引き締められ、厳しい統制・倹約で、民衆の反発を招く 尊号一件(1789〜93、定信は天皇の実父への尊号宣下を拒否)→ 幕府と朝廷の協調関係崩壊 1793、信貞は家斉と対立し退陣(老中在職6年) |
田沼意次が失脚したのち、田沼派の人々と白河藩主松平定信(1758〜1829)を老中に据えようとする三家・三卿との間で激しい権力闘争が繰り広げられ、これに決着をつけたのは1787(天明7)年5月の江戸、大坂をはじめとする全国30余りの都市での打ちこわしである(天明の打ちこわし)。とくに江戸では、市中の米屋などへの打ちこわしが5日間も続く大騒動になり、政府に強い衝撃を与えた。この結果、田沼派が失脚して6月に松平定信が老中に就任し、寛政の改革を断行した。翌年、15歳の将軍家斉(1773〜1841)の補佐にもなって改革政治を推進した。杉田玄白が「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人も侍り」(『後見草』)と指摘したように、打ちこわしが引き金となって幕府に政変がおこり、寛政の改革が断行されたことが重要である。定信政権は「打ちこわしが生んだ政権」であり寛政の改革は「打ちこわしが生んだ改革」ともいうことができる。
幕府の衰退
文化・文政時代
大御所時代(1793〜1841)
特色 | 11代将軍家斉の治世 大御所としても実権を握る(大御所時代) |
政治と政策 | 老中水野忠成の賄賂政治 → 政治の腐敗 奢侈な生活 → 財政破綻・貨幣改鋳の利益 関東農村の治安混乱(無宿人の増加) → 関東取締出役の設置(1805) → 寄場組合の結成(1827) |
結果 | 放漫な政治 → 商品貨幣経済・農村工業の進展、都市人口の増加 天保の飢饉(1833〜39頃) → 物価騰貴、生活の破綻 → 百姓一揆・打ちこわしが頻発 大塩の乱(1837):「窮民救済」を掲げ、大坂で挙兵 → 幕府の威信は失墜 化政文化の開花:江戸を中心に開花、町人文化の爛熟 |
松平定信が老中を辞職したのち、文化・文政時代を中心に11代将軍家斉が在職し、1837(天保8)年に将軍職を家慶(1793~1853)にゆずったのちも、大御所(前将軍)として死ぬまで幕府の実権を握り続けた。これにちなんで、主に文政から天保の改革以前の間を大御所時代とも呼んでいる。定信の辞職後も、定信が登用した「寛政の遺老」と称される松平信明(1760- 1817) らの老中たちにより、寛政の改革の路線が引き継がれていたが、1818(文政元)年に水野忠成(1762~1834)が老中になると、幕政は大きく転換した。寛政の改革以来の財政緊縮政策は、蝦夷地経営や将軍家斉の子女の縁組みなどの臨時経費の増大により、行き詰まった。そこで幕府は、総計で金4819万7870両と銀22万4981貫にのぼる品位を落した文政小判などの貨幣を大量に鋳造し、550万両にのぼる利益を得た。貨幣改鋳は幕府財政を潤したが、質の悪い貨幣が大量に流通したため物価は上昇し、物価問題が幕政上の重要な課題となった。しかし、この政策は商品生産を刺激し、商人の経済活動もいっそう活発となり、都市を中心に化政文化と呼ばれる庶民文化の花が開くことにもなった。
このころ、江戸を取り巻く関東農村では、貨幣経済が浸透して交通・流通の要所が町場化し、商人や地主は力をつけてきたが、没落する農民も多く発生するようになった。それに加えて、幕僚と私領が入り組んでいたため、無宿人や博徒の集団により治安の乱れが生じた。幕府は1805(文化2)年、関東取締出役(俗に八州廻りと呼ばれる) ❶ を設け、幕領・私領の別なく犯罪者を逮捕させた。さらに1827(文政10)年には、幕領・私領の区別なく近隣の村々で組合をつくって小惣代をおき、それをいくつかまとめて大惣代をおき、共同して地域の治安や風俗取締りにあたらせる寄場組合(改革組合村ともいう)をつくらせた。
列強の接近
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
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家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |