徳川家治 とくがわいえはる( A.D.1737〜A.D.1786)
江戸幕府10代将軍(在職 1760~86)。家重の長男。母は梅渓通条の娘。幼名は竹千代。院号は浚明院。宝暦10(1760)年9月2日将軍宣下。田沼意次が重用され、いわゆる「田沼時代」が出現。2男2女が早世して世子がなく、一橋家から家斉を養子とした。死後、田沼意次罷免後の天明6(1786)年9月8日に喪を発した。
徳川家治
江戸幕府第10代征夷大将軍
(在位1760〜1786)
(在位1760〜1786)
主な幕僚:側用人兼老中田沼意次、若年寄田沼意知
江戸幕府10代将軍(在職 1760~86)。家重の長男。母は梅渓通条の娘。幼名は竹千代。院号は浚明院。宝暦10(1760)年9月2日将軍宣下。田沼意次が重用され、いわゆる「田沼時代」が出現。2男2女が早世して世子がなく、一橋家から家斉を養子とした。死後、田沼意次罷免後の天明6(1786)年9月8日に喪を発した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
幕藩体制の動揺
幕政の改革
田沼時代
田沼の政治
特色 | 財政再建、商業資本の積極的な利用 → 賄賂の横行 | ||
政策 | 商業 | 株仲間の積極的な公認(運上・冥加の増徴) 幕府の専売拡張(銅・鉄・真鍮・朝鮮人参座など設置) 定量の計数銀貨鋳造(南鐐弐朱銀・明和5匁銀) |
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新田開発 | 印旛沼・手賀沼の干拓(1782〜86)→ 利根川の大氾濫で挫折 | ||
蝦夷地開発 | 工藤平助『赤蝦夷風説考』の意見採用 → 最上徳内らの蝦夷地派遣(1786) | ||
貿易 | 長崎貿易の制限緩和(俵物・銅の輸出) | ||
結果 | 民間の学問・文化・芸術の発展 賄賂政治への批判の強まり 天明の飢饉・浅間山の大噴火 一揆・打ちこわしの頻発 | 10代将軍家治の死去 田沼意知の暗殺(1784) 田沼意次の罷免(1786) |
将軍吉宗のあと、9代徳川家重(1711〜61)・10代徳川家治(1737〜86)の時代になると、側用人を兼ね老中となった田沼意次(1720〜88)が幕政の実権を握り、きわめて強い権勢をふるった。この時代を田沼時代と呼んでいる。