徳川秀忠 とくがわひでただ( A.D.1579〜A.D.1632)
江戸幕府第2代征夷大将軍(在位1605〜1623)。徳川家康の3男。関ヶ原の戦いでは本戦に遅参し、家康に叱責される。大坂の陣で家康とともに出陣し、豊臣氏を滅ぼした。家康死去のあとをうけて幕府組織の拡充・整備を行ない、1620年は娘和子(東福門院)を入内させた。1623年将軍職を2男の徳川家光に譲って隠居し、大御所と称した。1629年紫衣事件を通して後水尾天皇に退位させた。
徳川秀忠
(在位1605〜1623)
関ヶ原の戦いでは本戦に遅参し、家康に叱責される。よく父・家康に従い、将軍職を受け継いだ。その後、大御所家康主導の二元政治で初期幕府体制の基盤固めに寄与した。家臣に慕われていた名君であったという。
関ヶ原での汚名を返上した二代将軍
忘れ得ぬ痛恨事 関ヶ原の遅参
徳川幕府二代将軍徳川秀忠が表舞台に出たのは、関ヶ原の戦いのとき。すでに22歳になっていた。この戦いで、秀忠が率いた軍勢は3万8000という大兵力。秀忠の使命は、中山道から西上して、父徳川家康率いる東軍の諸大名連合軍と合流し、西軍を撃滅することである。
だが進軍の途中、わずか2000の兵が籠もる信州上田城で真田昌幸・真田幸村親子に足止めされる。貴重な時間を空費したうえに天候にも恵まれず、秀忠軍が関ヶ原に到着したときには、合戦はすでに終了していた。この不手際に家康は、一時は秀忠の面会を許さないほど激怒した。秀忠も弁明せ
ず、自害の命を静かに待っていたという。しかし、次期将軍は武名の高い次男・豊臣秀康でなく秀忠が選ばれた。「秀忠公を許さないのであれば、従軍した私も同罪であるから自害する」と、徳川四天王のひとりである榊原康政が、謹慎していた秀忠をかばったように、秀忠には人徳があった。戦国の乱世を終焉させたこれからの幕府を宰領するのは武勇ではなく、人徳や人を引きつける魅力のほうが重要視されたのだ。
大御所家康のあとを受け徳川政権を盤石に
秀忠は人生最大の山場で最大の失態をしてしまったが、父が開いた幕府を盤石とするべく心を配り、徳川二代将軍としての責を見事に果たし得たともいえる。征夷大将軍の職を譲られたのちは、大御所として駿府城にあった家康の命にそむかず、木石に徹する忍耐力で、無駄な荒波を立たせなかった。家康の死後、名実ともに幕府の主権者になる。秀忠は、家康の遺志を受け継ぎ、幕藩体制の基礎づくりに尽力する。
秀忠が積極的に行ったのは、大名統制であった。秀吉恩顧の大大名・福島正則を領地替えのうえ大減封に処したのをはじめ、田中忠政、最上義俊などの有力外様大名を改易。弟の松平忠輝や、父である家康子飼いの本多正純など譜代大名も、容赦なく改易に処した。大御所時代も含めると、秀忠の時代に外様23家、親藩・譜代16家が改易されている。
秀忠は、こうした武断政治をとることで、幕府の権威を高めていった。将軍職を徳川家光に譲ったあとも、父・家康と同様に大御所となって二元政治を実施。以後250年に及ぶ幕藩体制の礎を築いた優れた君主であった。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで
幕藩体制の確立
幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼は依然として大坂城におり、摂津·河内・和泉3カ国65万石余りの一大名になったとはいえ、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせた。駿府に隠退して大御所と称した家康は、実権を握り続け、ついに1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、10月大坂冬の陣を引きおこし、12月いったん和議を結んだ。翌1615(元和元)年4月大坂夏の陣を戦い、5月大坂城陥落、淀君(1567〜1615)·秀頼母子の自害によって戦いは終わった。ここに「元和偃武」と呼ばれる「平和」の時代が到来した。
幕藩体制
武家諸法度
1615(元和元)年の大坂落城後、徳川家康は金地院崇伝(1569〜1633)らに命じて法度草案を起草させ、検討ののち、7月7日に将軍徳川秀忠が諸大名を伏見城に集め、崇伝に朗読させて公布した。内容は大別すると、政治・道徳上の訓戒、治安維持の規定、儀礼上の規定となるが、これによって幕府と諸大名との関係は、これまでの私的な従属関係を脱して公的な政治関係となった。つまり大名は、各領国において公儀として領民にのぞみ、そのことによって領域的支配の正当性を認められた。
家康の死後、1617(元和3)年に2代将軍秀忠は、大名・公家・寺社に領知(地)の確認文書(領知宛行状)を発給し、自ら全国の土地領有者としての地位を明示した。大名とは1万石以上の領地を与えられ、将軍と主従関係を結んだ武士をいうが、軍事力を備えているだけにその統制には苦心した。1619(元和5)年、広島城主(49万8000石)福島正則を武家諸法度の城郭修補の項に違反した理由で改易し、そののち信州川中島(4万5000石)へ転封した。こうして法度を遵守させるとともに、将軍より年功の西国布力外様大名をも処分できる圧倒的な力を示した。
その一方で、巧妙に大名を配置した。大名の数は江戸時代初期にはかなり変動があったが、中期以降は約260〜270ぐらいであり、これらは将軍との親疎の関係で親藩・譜代・外様にわけられる。
1623(元和9)年将軍職を徳川家光(1604-51)にゆずった秀忠は、大御所として幕府権力の基礎固めを行い、1632(寛永9)年に死去した。
幕府と藩の機構
幕府の職制は、3代将軍家光のころまでに整備された。それ以前の家康・秀忠時代は、三河以来の譜代門閥(大久保忠隣・酒井忠世·土井利勝ら)が、年寄という立場にあって将軍や大御所の側近を固め、重臣となった。このほか僧の天海(1536?〜1643)・崇伝、儒者の林羅山(1583〜1657)、商人の茶屋四郎次郎(1542〜96)・後藤庄三郎らが家康の側近として諮問にこたえた。
天皇と朝廷
幕府はこのような法度や摂家・武家伝奏(のちに議奏も)の統制機構を通して天皇・朝廷が自ら権力をふるったり、他大名に利用されることのないよう、天皇や公家の生活・行動を規制し、京都に封じ込める体制をとった。そのため、禁裏御料、公家領、門跡領は必要最小限度にとどめられたし、天皇の行幸は慶安期を最後に幕末期まで原則として認められなかった。また1620(元和6)年には、徳川秀忠の娘和子(東福門院、1607〜78)を後水尾天皇に入内させたのを機に、幕府は統制を強め、官位制度や改元など伝統的な朝廷の機能を、全国支配に役立てた。
1629(寛永6)年5月7日、後水尾天皇は譲位の意思を固め、武家伝奏を江戸に派遺して幕府に伝えた。譲位の趣旨は2カ条あった。ーつは、数年来病んでいた天皇の身体の腫物治療に灸を用いたいが、灸治は天皇在位中には行えない、だから譲位を望むという内容である。では譲位したあと誰が天皇になるのか、それが2カ条目の内容で、女ー宮興内親王(徳川秀忠の娘和子が生母)が即位することになる。女性天皇であることに天皇側は躊躇したが、それを超えて「女帝の儀くるしかるまじき」と記した。しかし、この5月の譲位要望は幕府に断られた。大御所秀忠の結論は、女性天皇誕生には同意するものの、6歳の孫娘ではいかにも時期尚早であるということであった。
この2年前の1627(寛永4)年、幕府は大徳寺·妙心寺の入院·出世が勅許紫衣之法度(1613年公家衆法度と同時に公布)や禁中並公家諸法度に反して、みだりになっていると咎めた。大徳寺沢庵(1573〜1645)·玉室や妙心寺単伝は、これに抗議し続けたので1629(寛永6)年7月、幕府は沢庵らを出羽国などに配流し、1615(元和元)年以来幕府の許可なく勅許された紫衣を剥奪した。以上の一連の事件を紫衣事件というが、この事件の背景には、禁中並公家諸法度などの幕府法度と天皇綸旨とが抵触している状態を打開し、幕府法度の上位を明確に示す必要があったからである。
後水尾天皇は1629(寛永6)年11月8日、幕府の同意を求めずに突然に譲位した。
これに対して12月27日、やっと江戸城の徳川秀忠·家光からの返答が京都に届いた。「御譲位之由には驚いたことであった。こうなったうえは叡慮次第」と天皇の意に沿うことが言明され、譲位が承認された。かくして奈良時代の称徳天皇以来、859年ぶりの女性天皇(明正天皇 位1629-43)の誕生となった。
即位にあたって、幕府は役割を果たさなかった武家伝奏の中院通村を交代させ、さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じた。家康以来推し進めてきた朝廷統制の基本的な枠組みは、ここに改めて確立し、幕末まで持続された。