徽宗 A.D.1082〜A.D.1135
徽宗は、北宋の第8代皇帝(在位1100年2月23日 - 1126年1月18日)。芸術を保護し、書画を中心に文化を発展させたが、政治を蔡京に任せ、乱費に夜財政難を招く。金の侵攻を招き、北宋を滅亡させた。
徽宗
遼の討伐で宋の滅亡を招いた画家皇帝
神宗(宋)の子で、兄の哲宗(宋)が皇子なく没したため、思いがけず帝位に就いた。徽宗に政治への関心はなく、宰相の蔡京に一任した。学芸者を保護。徽宗自身、書、画に優れ、名画「桃鳩図」を残した。文化事業は大いに発展したが、徽宗の生活は奢侈で、芸術に費やされる国費もかさんだ。
紙幣は乱発。専売制が強化され、国民には重税が課せられた。このため農民の第反乱「法臘の乱」がおきた。折しも北方の満州では女真族の王朝「金(金朝)」が台頭して来た。蔡京は徽宗に金との同盟を勧めた。かねてからの外敵であった北方の王朝「遼(遼朝)」を、金に討たせるためである。金はねらい通り遼を滅ぼし、宋は燕雲十六州を回復した。しかし徽宗は金へ兵を送らず、戦後の褒賞も与えなかったため、これを不服とした金は宋へ侵攻。首都開封は制圧された。
徽宗は退位し、長男の欽宗(宋)を即位させた。そして金に賠償金を払い、紛争を収めようとしたが、国内の主戦派の反対を招き失敗。徽宗は欽宗とともに捕らえられ、金の地へ連行された(靖康の変)。これにより北宋は滅亡。徽宗は、幽閉されたままその地で没した。欽宗の弟、高宗(宋)は江南へ逃れ、「南宋」王朝が始まった。
『水滸伝』の主人公 宋江
徽宗の治世に反乱を多し、揚子江北岸などを制圧したが、山東半島まで侵攻したところで宋軍に敗れ降伏した。この反乱をもとにした伝奇小説『水滸伝』の主人公として有名で、小説では、宋江は108人の盗賊の首領として梁山泊に立てこもり、世直しのために宋と戦う。
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
宋の南遷と金の華北支配
実質的には北宋の最後の皇帝となった徽宗は、新法を復活して財政的にはしばしの安定状態をつくりだした。彼は詩文にもすぐれ、書画においても、山水画や有名な「桃鳩図」を描いて名手の誉れ高く、史上まれにみる風流天子であった。こうした徽宗の時代は、中国美術史上、宣和時代ともいわれる宋代美術の黄金時代であった。
その一方、徽宗は、豪華な宮殿や庭園の造営を好み、費用をまかなうために、新法を民生安定よりも民衆収奪のために行使した。とくに民衆を苦しめたのが、人口庭園を築くために、江南から奇岩珍木を大運河で開封に運ぶ、「花石網」と呼ばれた徴発であった。花石網により、巨岩の通過する水門や橋はとりこわされ、大運河の水運も滞った。また大運河の周辺の住民は人夫に動員され、江南の民衆は多大な損害を被ったという。108人の豪傑が梁山泊に立てこもって権力に反抗する小説『水滸伝』は、この徽宗時代の中国を舞台とするものである。