承平・天慶の乱 (10世紀)
939年発生の平将門の乱(939〜940)と藤原純友の乱(939〜941)の総称。天慶の乱ともいう。平将門は国司を追放し、関東一帯を占拠した。同じ頃、藤原純友は瀬戸内海西部の海賊を率いて、太宰府にも侵入した。
承平・天慶の乱
939年発生の平将門の乱(939〜940)と藤原純友の乱(939〜941)の総称。天慶の乱ともいう。平将門は国司を追放し、関東一帯を占拠した。同じ頃、藤原純友は瀬戸内海西部の海賊を率いて、太宰府にも侵入した。
貴族社会と国風文化
荘園と武士
地方の反乱と武士の成長
10世紀に政治が大きく変質していく中で、二つの大きな流れが生まれた
。
- 地方の各地に成長した豪族や有力農民が、勢力を拡大するために武装し、弓矢をもち、馬に乗って戦うようになった。彼らは兵と呼ばれ、家子といわれる一族や郎等などの従者を率いて互いに戦いを繰り返し、時には国司に反抗した。
- 畿内近国に成長した豪族が、朝廷の武官となり、貴族に武芸をもって仕えるようになった。彼らも兵や武士と呼ばれ、滝口の武士のように宮中の警備にあたったり、貴族の身辺や都の市中の警護に当たった。
この二つの流れは、相互の交流を経ながら、各地に一族の結びつきを中心にした連合体である武士団をつくった。特に辺境の地方では、旧来の大豪族や、任期終了後もそのまま任地に土着した国司の子孫などが多く、彼らを中心に大きな武士団が成長し始めた。その中でも東国(関東地方)は良馬を産したところから武士団の成長が著しかった。
その東国に早くから根をおろしたのが桓武天皇の曽孫の高望王が平姓を与えられたことで始まる桓武平氏である。そのうちの平将門は、935(承平5)年、下総を根拠地にして一族と死闘を繰り返すうちに、叔父の平国香を殺したところ、常陸の国司に反抗していた豪族の藤原玄明が将門に援助を求めてきたことから、玄明と結び、939(天慶2)年に反乱を起こした(将門の乱)。
将門は常陸の国府を襲って国印を奪い、さらに下野・上野の国府を攻め落とし、東国の大半を征服して、ついに新皇と称するにいたった。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍として東国に下らせたが、その到着の前に平国香の子の平貞盛が下野の豪族藤原秀郷らの協力を得て、将門の本拠地を襲い、将門を倒した。
それとほぼ同じころ、元伊予の国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱をおこし(純友の乱)、伊予の国府を奪い、東は淡路まで占領し、西は大宰府を攻め落として、朝廷に大きな衝撃を与えた。ここでも藤原忠文が征西大将軍に任じられたが、それに先立って、小野好古や清和源氏の祖である源経基らによって純友は討たれ、ここに東西の反乱はおさまった。二つの乱は時の元号から承平・天慶の乱と呼ぶ。
これらの乱を通じて朝廷の軍事力の低下と地方武士の実力を知った朝廷や貴族たちは、武士を積極的に侍として奉仕させるようになった。また地方の武士を館侍や国侍として国司のもとに組織するとともに、諸国の追捕使や押領使に任命して、治安維持を分担させるようになった。盗賊や反乱者を追捕するために派遣されるのが追捕使であり、内乱などに際して兵士を統率するのが押領使で、いずれも次第に諸国におかれるようになった。