持統天皇 (鸕野讚良)
A.D.645〜A.D.703
第41代天皇(在位690年2月14日 - 697年8月22日)。父は第38代天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の蘇我遠智娘。第40代天武天皇皇后。天武天皇崩御後即位し、天武天皇の政策を継承し、皇親政治を推し進め、直系の皇位継承を死守した。
持統天皇
わが子の系統を皇帝に。持統が見せた思いの深さ
生涯をかけて死守したわが子の系統
天武天皇とともに律令国家の基礎を築いた持統天皇が、生涯心をくだいたのが、わが子の系統を皇位に就かせることだった。
天武は持統との子・草壁皇子を後継と決めたが、それでも持統の心は穏やかではなかった。病弱で政治的実績に乏しい草壁とは違い、聡明で朝廷内の信望も篤い大津皇子というライバルがいたのである。
年齢も序列も草壁のほうが上だが、後顧の憂いを断つために持統は、無実の罪を着せて大津を自害に追い込んだという。これで草壁がすんなり皇位に就くかと思われたが、草壁は天武が崩御した翌年に亡くなってしまった。
持統の悲嘆は大きかったが、持統は天武の皇子たちを差し置いて、正式に即位したのだ。その真意は、草壁の遺児である7歳の軽皇子に皇位を伝えるためであった。持統の執念である。
持統は53歳で軽皇子に譲位、待ちに待った孫の文武天皇が誕生した。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
律令国家の形成
律令国家の成立
律令国家の形成
天武天皇は、大臣をおかず、皇后(天智天皇皇女の鵜野皇女。のちの持統天皇)や、草壁皇子・大津皇子・高市皇子らの皇子、そして諸王などの皇親を重く用いることによって、律令体制国家の早急な建設をめざした。
各官司の統括者には諸王が任じられ、また、律令制支配を浸透させるために頻繁に各地方に派遣された使節の統括者にも、諸王が任命された。
一方、氏族層は、唐・新羅戦争という激動が続く東アジア情勢の中、律令国家の官僚の出身母体になることこそ、支配者層として生き残って行く道であることを悟り、皇族や皇親が主導する政治体制の下位に自らを位置付けた。天武朝に始まり、律令国家体制の成立まで続いたこの政治体制を皇親政治という。
「政の要は軍事なり」と詔した天武天皇は、畿内を武装化した軍国体制のもと、強大な天皇権力を利用して国家機構を組織し、皇親や諸豪族をその中に再編成することをめざした。そのためにまず整備したのは、豪族と官吏に登用する際の出身法や、勤務評定と昇進の制度であった。ここに個人の能力と忠誠を昇進条件とする官僚制が、本格的に形成され始めたのである。
その一方では675年に、天智天皇が定めた氏族単位の民部を廃止し、682年には、官人個人に食封を支給する制度への改定を進めるなど、律令官人化政策が推進された。
さらに681(天武天皇10)年、律令の制定に着手し、685(天武天皇14)年には、そのうちの冠位制のみを先行して施行した。この冠位制は、皇子と諸王のための冠位と、諸臣のための冠位とにわかれており、皇親と諸臣を明確に区分したうえで、皇親を諸臣の上位に置いたものである。皇親も授位範囲に含ませたことは、全ての支配者層に冠位を授与して国家の官僚にしようとした天武天皇の意図を表している。
同じ681(天武天皇10)年、「帝紀および上古諸事」を記し定めることによって国史の編纂が開始された。これは、それまで天武天皇自身のもとで行われていた私的な歴史書編纂(これがのちの『古事記』に結実する)にかわって行われた大規模な国家レベルの修史事業であり、のちに『日本書紀』として完成することになる。
また、684(天武天皇13)年には八色の姓を定め、天武朝という時点における勢力や功績に対応した形で、姓を再編成した。
八色の姓は、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置からなり、上位4屍が、上級貴族を出す母体の氏族とされた。もともと臣、連の姓を持つ氏族のうちで、有力なものはそれぞれ朝臣・宿禰姓を賜ったが、この時の賜姓からもれた者は、第6・第7の格に落とされたことになる。
あとを継いだ皇后の鸕野皇女(持統天皇)は、689年、飛鳥浄御原令を施工し、その「戸令」に基づいて戸籍の作成を命じた。
これは庚寅年籍として翌690年に完成したが、五十戸を一里として国・評・里・戸の制を確立したのも、この時であった。戸は、1戸から一人の兵士を徴発するように、成年男子が平均4丁含まれるように編成された。
また、692年には班田使が派遣されたが、この時から全国的な班田収受が始まったとされる。
694年には、飛鳥の北方に藤原京が完成し、遷都が行われた。これは、条坊を備えた、わが国最初の本格的な都城である。
持統天皇は、697年に天皇位を孫の文武天皇に譲ったが、その後も太上天皇として天皇を後見し、政治の実権を握った。このようにして大化改新以来進められてきた、天皇制と官僚制を軸とする中央集権的律令国家体制の建設は、ようやく完成へと近づいたのである。
天平文化
記紀の編纂
720(養老4)年にできた『日本書紀』は、舎人親王を代表として中国の歴史書の体裁にならって編纂されたもので、漢文により編年体で書かれている。30巻からなり、神話・伝承を含めて神代から持統天皇にいたるまでの歴史を天皇を中心に記している。なかには中国の古典や編纂時点の法令によって文章を修飾した部分もあり、古代史の実像を明らかにするためには十分な史料批判が必要となるが、古代史研究の材料を提供する貴重な資料として位置付けられる。
なお、『日本書紀」をはじめとして朝廷による歴史編纂はのちに平安時代の途中まで引き続き行われ、合わせて六つの漢文正史が編纂された。これらを総称して「六国史」という。
系図
万葉歌人
万葉歌人としても『万葉集』巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として名を留めている。
- 「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山(定訓)
持統天皇が登場する作品
いずれもマンガで、創作された部分はあるが、大まかな流れや飛鳥時代の動き、東アジアの情勢などを知ることで、歴史に興味を持つきっかけになると思う。登場人物が多いので、巻頭にある系図と照らし合わせ、登場人物の立場を把握しながら全巻一気に読んでほしい。
天上の虹 持統天皇物語
著者 里中満智子
出版社 講談社
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天智と天武 新説・日本書紀
中村 真理子(イラスト), 園村 昌弘(原著)
出版社 小学館
天智と天武 1 試し読み
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同時代の人物
武則天(624〜705)
武周初代女帝。中国史上唯一の女帝。太宗(唐)の後宮、高宗(唐)の後宮をへて、高宗の皇后(則天武后)となり、高宗死後は実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗(唐)も退位させて自ら武周朝を建て聖神皇帝と称した。