斎藤道三
斎藤道三像(一部)(鷲林山常在寺所蔵)©Public Domain

斎藤道三


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斎藤道三 (1494頃〜1556)

戦国時代の武将。下克上を地でいき武名をあげた「美濃のまむし」。仕官先の主家をつぎつぎと乗っ取り、美濃国を領国化。井ノ口城いのくちじょう下に楽市・楽座を実地し商業を盛んにする。娘を織田信長に嫁がせ、織田氏と縁戚関係を結んだ。息子斎藤義龍さいとうよしたつに敗れた。

斎藤道三

下克上の見本のような人生

1542年(天文11)、美濃の大桑城おおがじょうが落城し、守護・土岐頼芸とさよりなり尾張おわりへ逃れた。斎藤道三さいとうどうさんは念願の美濃一国を手中に収めたのである。このとき道三は49歳、灯油を売りながら美濃に入ってから10数年後のことであった。

一介の行商人だった道三を取り立てたのは、頼芸であった。その大恩人を追放したうえでの美濃押領おうりょうという所業に対し、世人は「まむしの道三」と呼んだ。

美濃国の支配者となった道三は、尾張の織田信秀おだのぶひでと結び、娘を信秀の嫡男ちゃくなん織田信長おだのぶながに嫁がせる。信秀の死後、道三は娘婿の信長と初めて会うことになった。「まるで猿つかひの様な」いでたちでやってきた信長に道三の家臣は笑ったが、道三は500にも及ぶ鉄砲隊を引き連れた信長に仰天した。そして会見場に正装で現れた信長は、「蝮の道三」を恐れない図太さで会見を終わらせたという。帰途、道三は「わしの息子どもは、いずれあのたわけに臣従することになるだろう」と嘆いたという。

その後、わが子斎藤義龍さいとうよしたつと不和になり、長良川河畔で戦い敗れてはつ没した。道三の予言が的中するのは、約10年後のことである。

略年表

  • ?年  山城国に生まれる
  • 1527年 土岐頼純とさよりずみを追放し土岐頼芸とさよりなりを守護にする
  • 1530年頃 長井家を乗っ取る
  • 1538年 守護代斎藤家の家督を継ぎ斎藤利政と名乗る
  • 1542年 土岐頼芸とさよりなりを追放して美濃国を乗っ取る
  • 1548年 娘を織田信長に嫁がせる
  • 1556年 子の義龍との長良川の戦いに敗れる
近年発見された「春日倬一郎氏所蔵文書」によれば、従来語られている道三の事績は、前半は父親のもの、後半が道三のものである可能性が高いという。

ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

同時代の人物

カール5世(神聖ローマ皇帝) (1500〜1558)

スペインハプスブルク朝初代王(カルロス1世(在位:1516年〜1556年))、神聖ローマ帝国ハプスブルク朝第4代皇帝(在位:1519年〜1556年)、カスティーリャ王、レオン王、アラゴン王、ナバラ王、バレンシア王など70の称号をもち、領土は南北アメリカをふくめた空前の一大帝国を統治。

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