新(中国) (8年〜23年)
中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯に封じられたことにより国号を新とした。光武帝が漢王朝を再興し、新王朝はわずか1代15年で滅んだ。
新(中国)
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
武帝の政治
武帝ののち、宣帝(漢)のとき、国家財政の再建がはかられたが、十分な成果をあげるまでにはいたらなかった。そののち、宮廷内部では外戚や宦官の専横を招き、皇帝の権威は失われていった。
また、地方では土地を兼併して勢力を増した豪族がしだいに成長していき、地方政治を握るまでになっていた。こうしたなかで、ついに外戚の王莽は儒教をたくみに利用して帝位を奪い、前漢を倒して新(中国)を建国した(8年)。
新と後漢
新(中国)(8〜23)をたてた王莽は、周の政治を理想として『周礼』などの儒教の経典に基づいて政治をおこない、官制や貨幣制度を改め、全国の土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、また商工業を統制した。その極端な復古主義の政策は社会の実情に合わず、農民や豪族の反抗を招いた。対外的にも、匈奴や西域諸国、高句麗などが離反した。
こうした政治の混乱のなかで農民の反乱(赤眉の乱 18〜27)がおこり、それに乗じた地方豪族の反乱もおこって、都の長安は陥落し、王莽は殺されて新はわずか15年で滅亡した(23)。
新の滅亡後も群雄の争いは続いたが、やがて漢の一族である劉秀(光武帝(漢))は、豪族を率いて勢力を伸ばし、漢(後漢)を復興し、洛陽に都をおいた(25)。光武帝(漢)は赤眉の乱を鎮圧すると(27)、内政に力を注ぎ、前漢の諸制度を復活し、儒教的な秩序のもとに国内の平和を確立しようとする一方、対外的には消極策をとった。