明智光秀 あけちみつひで(?〜1582)
安土桃山時代の武将。通称十兵衛。足利義昭に織田信長を紹介して上洛を支援。近江・畿内の反信長勢力討伐など功をたてる。丹波を平定し信長の天下統一事業を支えた重臣のひとり。1582(天正10)年京都の本能寺で主君・織田信長を討つ(本能寺の変)。光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に山城の山崎の合戦で秀吉に大敗。近江坂本に帰る途中殺害された。
明智光秀
安土桃山時代の武将。通称十兵衛。1575(天正3)年九州の旧族惟任の称号を与えられ日向守。初め斎藤道三に仕え、流浪ののち年織田信長に仕えた。翌年、滝川一益に従い北国征伐に参加し、信長上洛に際しては村井貞勝らとともに京都の政務にあたり、信長の信任を受けた。元亀2(1571)年、若狭平定の軍功により、近江坂本城主となり、滋賀郡を領した。のち朝倉氏が滅亡し、越前が平定されると、柴田勝家らと同国の経営を行ない、天正5年には信長の命で丹波に進撃して、丹波経略に尽力した。その後も荒木村重、松永久秀の反乱や紀伊雑賀の一向一揆、また武田勝頼征伐などの諸戦に従軍。同10年信長より徳川家康の功をねぎらうための接待役を命じられたが、その準備なかばで、さらに羽柴秀吉への援軍を命じられ、憤激して帰国し、丹波亀山城から兵を整え上洛し、6月2日信長を本能寺で討つにいたった(本能寺の変)。しかしその後の収拾策は遅滞し、光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に対して、味方と頼んだ蒲生秀賢、細川忠興、筒井順慶らはいずれも参陣せず、京畿地方の人心の収攬も成功しないまま、13日山崎の戦いで秀吉に大敗、近江坂本に帰る途中、小栗栖で殺害された。
参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018
織田家中随一の勲臣から反逆者の道を選んだ智将
千載一遇の好機到来 主君・信長を本能寺に襲う
1582年(天正10)5月、明智光秀は主君・織田信長より毛利討伐中の秀吉支援のための出陣を命じられる。出陣の準備中、光秀は間者からある報告を受け取った。わずかな手勢だけを従えた信長が、京の本能寺に投宿するというのだ。光秀は、ふと思いついた。秀吉は備中での毛利戦で動けない。柴田と佐々は北陸で上杉を攻めている。滝川と森は越後にいる。信長の主だった武将は京より離れた場所で奮戦中だ。徳川は堺にいるが、遊覧中の身であり戦う態勢にない。絶好の機会ではないか。6月1日夜半、光秀は1万3000の兵とともに居城の亀山城を出発。一路、京へ向かった。将兵には、中国攻めの陣容を信長に見せるためといってある。桂川を渡り、京を目の前にして光秀は全軍に触れを出した。「今日よりして、天下様に御成りなされ候間…」。自分が天下人になるというのだ。2日未明、本能寺を急襲、これを倒した(本能寺の変)。
明智光秀にとって誤算だったのは、豊臣秀吉が予想以上の速さで引き返してきたことである。光秀に呼応する武将が少なかったこともあり、光秀は山崎の戦いで敗北。逃れる途中、土地の者の襲撃にあい、あっけない最後を迎えた。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
幕藩体制の確立
織豊政権
織田信長の統一事業
信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、1582(天正10)年、甲斐の武田勝頼を天目山の戦いで滅ぼしてからわずか3カ月後、毛利氏征討に向かう途中、滞在した京都の本能寺で、家臣の明智光秀(1528?〜82)にそむかれて敗死した(本能寺の変)。
豊臣秀吉の全国統一
1582(天正10)年、秀吉は本能寺の変を知ると対戦中の毛利氏と和睦し、山城の山崎の合戦で明智光秀を討ち、信長の法要を営むなどして信長の後継者争いに名乗りをあげた。翌年には柴田勝家(?〜1583)を近江の賤ケ岳の戦いに破り、ついで勝家にくみした織田信孝(信長の3男1558〜83)をも自刃させて信長の後継者の地位を確立した。
南蛮貿易とキリスト教
ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶがそのうち、大友義鎮(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(如水、ドン゠シメオン、1546〜1604)·長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。
信長に仕えたアフリカ人
イエズス会宜教師が、ポルトガル人によってアフリカから連れてこられた黒人奴隷を初めて信長に会わせたとき、織田信長はからだに墨を塗っているものと思い込み、それが肌の色であると説明されてもなかなか信じようとしなかったという。信長にとっては世界の広さを痛感させられた、まさにカルチャーショックであったに違いない。その黒人はぎこちないながらも日本語を話せたことから、信長に気に入られ、宣教師のはからいで信長に仕えることになった。黒人は本能寺の変のときも刀を手にして明智方の兵とよく戦ったが、ついに捕えられてしまった。明智光秀の判断で命を助けられ、宜教師のもとに返されたらしいが、その後の消息については不明である。本能寺の変という日本史の舞台に、このような大航海時代にもてあそばれた一人のアフリカ人が居合わせていた事実を私たちも記憶の一隅にとどめておく必要があろう。
亀山城
明智光秀は、天正5 年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。天正8 年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2 年後に「本能寺の変」が起こります。
亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15 年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。現存する古写真は、明治初期に撮影されたものです。