最上徳内 (
A.D.1755〜A.D.1836)
北方探検家。出羽の生まれ。江戸で本多利明に天文・測量・航海術などを学ぶ。1785年、幕府の千島列島探査に参加。以後、数回蝦夷地を調査した。シーボルト事件の関与を疑われるが無罪。
最上徳内
北方探検家。出羽の生まれ。江戸で本多利明に天文・測量・航海術などを学ぶ。1785年、幕府の千島列島探査に参加。以後、数回蝦夷地を調査した。
蝦夷地探検のスペシャリスト
北方探検家。出羽国の農民の生まれ。江戸で本多利明に天文・地理・測量術などを学ぶ。31歳のとき、幕府の千島列島探査に参加。以後、8回にわたり蝦夷地を調査する。国後、択捉、ウルップの各島や樺太にも回る。シーボルト事件の関与を疑われるが無罪。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
ロシアの南下により、蝦夷地の処置が課題となった。幕府が直轄して開発する田沼時代の政策は、寛政の改革の開始とともに撤回されたが、1789(寛政元)年にクナシリ・メナシのアイヌが、場所請負商人による不正と搾取に抵抗して蜂起した事件(クナシリ・メナシの蜂起)は、幕府に大きな衝撃を与えた。寛政の改革では北国郡代 ❶ を新設して北方の防備にあたらせる計画が立てられたが、松平定信の老中辞職とともに実現しなかった。1796(寛政8)年から翌年にかけて、イギリス人ブロートン(Broughton 1762-1821)が蝦夷地の絵靭(室蘭)に来航し、日本近海の海図を作成するために測量する事件がおこった。これを契機に、幕府は1798(寛政10)年、近藤重蔵(1771〜1829)や最上徳内らに千島を探査させ、その翌年に東蝦夷地を直轄地とし、1802(享和2)年に箱館奉行を設けた。