朱全忠 A.D.852〜A.D.912
朱全忠は、五代後梁初代皇帝(在位907年6月1日〜912年7月18日)。塩の密売人で黄巣の乱に参加したが、反乱軍から唐へ帰順した。反乱鎮圧の功績で梁王となるが、哀帝に禅譲させて唐を滅ぼした。大運河と黄河の接点にある汴州(開封)に都を定めたが、その支配領域は黄河中下流域に限られた。
朱全忠
唐王朝を滅ぼした盗賊あがり
後梁の創始者。盗賊出身で、はじめ黄巣の乱に加わるが、形勢不利とみるや唐に寝返って、全忠の名を賜わり、汴州に治所を置く宣武軍節度使に任じられる。やがて唐の実権を握り、907年には禅譲させ帝位に就くが、その支配領域は黄河中下流域に限られていた。
寝返りの功から皇帝へ
塩の密売人だったが、黄巣の乱に参加。反乱軍から唐へ帰順。反乱鎮圧の功績で梁王となるが、907年、哀帝(唐)に禅譲させて唐を滅ぼし、後梁(五代)の初代皇帝となる。
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
玄宗の政治と唐の衰退
9世紀後半になると、唐(王朝)衰退はいよいよ進行し、政治腐敗によって民衆の生活は困窮の度を増した。こうした中、塩の密売商人で科挙の落第生ともいわれる黄巣が、仲間の王仙芝とともに挙兵すると、窮乏した民衆がつぎつぎと参加して巨大な民衆反乱となった( 黄巣の乱 875〜884)。
黄巣軍は全中国を荒らしまわり、長安を占領して勢力をふるったが、反乱軍から寝返って唐朝の汴州節度使となった朱全忠や突厥沙陀部の援軍により、かろうじて鎮圧された。
しかし、この反乱によって唐の支配は事実上崩壊し、各地の藩鎮が公然と自立・割拠するなかで、907年、唐は朱全忠(後遼の太祖)によって滅ぼされ、中国は五代十国の分裂時代へと突入した。
唐末五代の社会
唐末、黄巣の乱を鎮圧するのに功のあった節度使出身の朱全忠(太祖)は、907年、唐を倒して後梁をたて、大運河と黄河の接点にある汴州(開封)に都を定めた。以後、河北には後梁・後唐・後晋・後漢(五代)・後周の5王朝が交替し、その他の地方でも節度使が割拠して10国をたて、約50年間の分裂時代が続いた。この時代を五代十国と呼ぶ。
宋代の社会
開封の繁栄
秦漢以来、中国歴代王朝は、北方民族との対峙という軍事的観点から、要害堅固の地である咸陽や長安・洛陽を国都としてきた。
また、その都市の内部も、治安維持を優先するあまり、整然とした街路と、街路に区切られた坊と呼ばれる方形の居住区に住民を押し込め、夜間外出を禁止した。さらにこれらの都市は、夜禁の制によって、日没とともにすべての城門を閉じて人々の出入りを禁ずる、閉鎖的な性格をもっていた。
ところが、唐を滅ぼした朱全忠が後梁の国都に定めた開封は、江南からの穀物を輸送する大運河と黄河とが合流する要衝であった。すなわち、当時の流通経済の発展を背景に、軍事的観点よりも財政的条件が国都選定で優先されたことを物語っている。
開封も日没とともに城門を閉じたが、人や物資の移動が盛んになってくると、城門の外であれば、夜禁の制に関係なく夜間でも営業できるとして、旅館・飲食店・商店などがつぎつぎとたてられ、城外の市街地化も進んだ。城内の一等地には瓦市と呼ばれる繁華街が出来上がり、瓦市には茶館・酒楼といった飲食店、勾欄と呼ばれる演芸場がたてられ、早朝から深夜にいたるまで老若男女の庶民が集まって、繁栄をきわめた。
こうした開封の繁栄のさまは、『東京夢華録』という当時の書物に生き生きと描かれている。
清明上河図
春分から15日目が清明節で、厳しかった冬が過ぎ春の一日を人々祖先の墓参などで郊外にくりだして過ごした。こうした都の開封の賑わいを張択端が描写したものが「清明上河図」で、図はその一場面である。開封城内の商店街は買物客や行楽客であふれ、馬やロバやラクダまで行き交い、酒食を提供する二階建ての楼にも多くの人々がつめかけている。