朱熹 A.D.1130〜A.D.1200
朱熹は、中国南宋の儒学者。朱学を大成し、まとめた「朱子学」は14世紀に科挙に採用され、明朝では官学となり、日本など周辺国家にも多大な影響を与えた。「大義名分論」が後世の思想に影響を与える。
朱熹
朱子学を完成した宋学の大家
南宋の時代、福建省の儒学者の子に生まれた朱熹は、9歳で『孟子』を読み終え、19歳で科挙に合格。地方官を歴任した。しかしついた職は、道教寺院の管理という閑職だったため、朱熹は学問に没頭した。朱熹が研究したのは、北宋の、周敦頤・程顥・程頤らの儒学。唐代の儒学が訓詁学(言語学)にどどまっていたのに対し、周敦頤らの儒学は宇宙の本質(理)を探るもので、朱熹はこれを宋学と名付けた。朱熹は宋学を総合し、儒学の思弁哲学と実践倫理の体系化を図った。これは道徳を大成するものであり、「朱子学」と呼ばれた。
「人間の則るべきものは宇宙の理」。人間は欲を捨て、理に尽くさなくてはならないと朱熹は説き、これを「性即理」と表現した。そしてその方法として、「事物に即して理を究める」ことを主張、これを「格物致知」と表した。
また朱熹は「大義名分論」を説いた。これは臣下の守るべき本分と、上下関係の秩序を明確化したもので、北方民族との折衝に悩まされた宋朝の、統治理論に応用された。
朱子学は、14世紀になると科挙に採用され、明朝では官学となり、日本など周辺国家にも多大な影響を与えた。
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
宋代の文化
経典の字句の解釈ばかりにとらわれた漢代〜唐(王朝)の訓詁学を否定し、宇宙を貫く哲理や人間の本質について深い思弁をめぐらし、同時に知の実践を重んじる宋学という新しい儒教思想が誕生し、開花した。北宋の周敦頤は、『太極図説』を著し、宇宙の原理から道徳の根本理念を解き明かし、宋学の祖となった。宋学は弟子の程顥・程頤兄弟に受け継がれ、やがて南宋の朱熹によって集大成され、宋学の最高峰として朱子学と称される。
朱熹は、万物の根源を宇宙万物を貫く原理たる「理」と物質を成り立たせている根本元素たる「気」に求め(理気二元論)、宇宙の「理」が人間に宿ったものである「本然の性」(理性)こそが人間のあるべき本質であるとした。(性即理)そして欲望や感情を抑えて「本然の性」を十全に発現させるための修養を説き、宇宙の万物に内在している「理」をひとつひとつ極めていくことを修養の本質として提示した(格物致知)。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)よりも、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を高く評価し、これに注釈をほどこして四書と称した。
こうした朱子学は、元(王朝)・明(王朝)から清(王朝)の初期に至るまで儒学の正統とされ、さらに朝鮮王朝や日本の江戸幕府でも官学として尊重された。
朱熹が学問や知識を重視して客観的な概念論を説いたのに対し、同時代の陸九淵(陸象山)は、人間の心性を重視し、心の中にこそ理は内在すると説き(心即理)、認識と実践の統一をはかる主観的な唯心論を説いた。この説は、のちに明の王陽明によって陽明学として発展させられた。
朱子学
朱子学は元代に科挙の科目となったことから、官学としてさかんになった。やがて清代になると、朱子学にかわって文献を重視する実証的な考証学が栄えた。
朱熹の活躍した当時の中国は、華北の大部分を金朝に奪われてしまい、艱難に直面した時代であった。朱熹の生誕地は福建省のほぼ中央で、その誕生は南宋の初めである。陸九淵(陸象山)の生家が薬種商兼農業の大家族で郷里に土着していたのに対し、朱熹の生家は官僚の小家族で、郷里を離れて転々と移住した。若年のとき禅に傾倒し、19歳で科挙に合格するが、このときも禅理によって経典を説いたと告白している。科挙によって進士となったが、官途を避け、師を求めて学問を続け、読書にいそしんだ。しばしば推薦されて官位につくように勧められたが、これを辞し、また官位についても長続きしなかった。