李卓吾 (李贄)( A.D.1527〜A.D.1602)
李卓吾(李贄)は、明末期の思想家。知事職を務めて退官。南京でイエズス会のマテオ・リッチと会見した。陽明学の左派で、偽りのない真心を「童心」と呼んで重んじ、自由主義・反儒教主義の立場をとるが、危険思想とみられ、逮捕され獄中で死亡した。
李卓吾
童心を尊び儒学を偽善として避難
明末期の思想家。知事職を務めて退官。南京でイエズス会のマテオ・リッチと会見した。陽明学の左派で、偽りのない真心を「童心」と呼んで重んじ、自由主義・反儒教主義の立場をとるが、危険思想とみられ、逮捕され獄中で死亡した。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明後期の社会と文化
明初の『四書大全』などの編纂によって朱子学は固定化、停滞にむかったが、これを打破して新たな儒学を提唱したのが王守仁(王陽明 1472〜1528)である。彼は朱子学に反対する立場をとる南宋の陸九淵(陸象山)が唱えた、認識と実践の統一を図る主観的唯心論の影響をうけ、その学説をさらに発展させた。すなわち彼は、無学な庶民や子どもでも本来その心の中に真正の道徳をもっている(心即理)と主張し、人間の心にある良知によって物を正とする「致良知」や、知識と行動とは合一すべきであるとした「知行合一」などを説いた。彼の考えはその著書である『伝習録』に述べられているが、こうした学派を陽明学といい、朱子学に不満をもつ学者のみならず庶民の間にも多くの支持をえ、やがて実践と実用を重んじる気風が高まり、その後に与えた影響は大きい。
たとえば明末に現れた思想家の李贄(李卓吾 1527〜1602)は、陽明学の影響をうけたひとりであるが、彼は仏教をも信じて「童心」を尊重し、ついには孔子や儒教経典を不完全なものと否定してしまった。政府から危険思想視された彼は反逆者として投獄され、そこで自殺した。