東大寺南大門 国宝
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊し、現在の門は朝廷から東大寺再建の勧進上人に選ばれた、当時61歳の俊乗房重源により大仏様建築様式を用いて、正治元年(1199)に上棟した。
東大寺南大門
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。
仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。
中世社会の成立
鎌倉文化
芸術の新傾向
鎌倉時代の建築は、平重衡に焼かれた東大寺の再建という一大事業とともに、新しい歩みを始めた。
1181(養和元)年、朝廷から東大寺再建の勧進上人に選ばれたのは、当時61歳の俊乗房重源(1121~1206)であつた。彼は陳和卿を起用して大仏を鋳造し、ついで大仏殿の再建に取り組んだ。いくつかの地域に拠点を築いて資金・資材を調達し、1195(建久6)年に大仏殿を再建した。このときに用いられた建築様式が大仏様(天竺様)であり、各拠点にも大仏様の仏堂が建てられた。
重源は3度も宋に渡ったと称しているが、豪放で変化に富み、美しい構造をもつこの大仏様は、宋(王朝)の江南・福建地方の様式を取り入れたものである。しかし、豪放な表現が一般になじまない、技術的な困難がある、などの理由で重源死後は用いられなくなり、東大寺南大門・浄土寺浄土堂などが遺構として残された。ただし、大仏様の細部の手法は従来の和様建築にも使用された。
大仏様:東大寺復興にあたり重源が採用した中国南方の雄大豪壮な建築技術。貫と柱を組み込んで構造を強化し、柱の途中に差し込むように組物をつけた挿肘木で、巨大な屋根を支える。