東西教会の分裂
キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる。1054年 教皇と総主教が相互に破門した。
東西教会の分裂
分裂の年は、日本においては、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互に破門した1054年とされることが多い。
しかし395年にローマ帝国が東西に分割された後、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い(フィリオクェ問題等)、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違い(教皇権に対する考え方の違い、司祭の妻帯可否等)などが増大した。そうした流れの中に1054年の事件があるのであり、一応、1054年の「相互破門」が日本の世界史教科書等で一般的な目安ではあるが、異論も少なくない。1054年の相互破門自体は東西双方から解消されているが、未だに東西両教会の「合同」は成立していない。
1054年:教皇と総主教の相互破門
経緯
1054年に、ミハイル1世(コンスタンディヌーポリ総主教)がレオ9世(ローマ教皇)に対して宛てた手紙の中で、差出人(ミハイル1世)の称号は「全地総主教(Οικουμενικός Πατριάρχης, Ecumenical Patriarch)」と記載され、ミハイル1世が教皇であるレオ9世に対し「父」ではなく「兄弟」と呼びかけていた事が東西両教会間の争点となった。
「全地総主教」の称号は、ローマ教皇の絶対的な権威と権限を侵しかねないものとして捉えられ、また教皇を「父」ではなく「兄弟」とコンスタンディヌーポリ総主教が呼ぶ事を認める事は、これもまたローマの権威を損ねるものとして捉えられたからであった。
こうした状況下で、ローマ側の使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていたのは枢機卿フンベルトであった。
フンベルトはニカイア・コンスタンティノポリ信条におけるフィリオクェ問題、すなわち聖霊が父からのみ発するとする文言を用いる東方教会と、聖霊は父と子から発するとする文言を用いる西方教会との間の論争において、「東方が勝手にフィリオケ(子より)の語を削除した」と強く主張し(実際は西方がフィリオケを後代に付加えた事は、現代の西方教会は認めている)、ミサにおける東方の執行形式を非難し、東方における神品の妻帯を批判し、さらにローマ教皇の絶対的な権威と権限を主張するなど、熱烈なローマ教皇至上主義者であった。
ミハイル1世(コンスタンディヌーポリ総主教)はフンベルトに会う事を、西方の政治的理由に対する疑義から拒絶し、数ヶ月に亘って会見の機会を与えずにフンベルトを待たせた。ここに至って、レオ9世(ローマ教皇)が既に3ヶ月前に永眠しており破門を行う事は不可能であったにも関わらず、フンベルトはミハイル1世(コンスタンディヌーポリ総主教)とその同調者に対する破門状を、1054年6月16日にコンスタンディヌーポリ総主教の座所たるアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけた。
その際、アギア・ソフィア大聖堂の一人の輔祭が大聖堂を出て行ったフンベルトを追いかけて取りすがり、破門状を持ち帰って欲しいと懇願したが聞き入れられなかった。
これに対してミハイル1世(コンスタンディヌーポリ総主教)は、フンベルトとその一行に対する破門を宣言した。これはノルマン人への対抗のために東西教会の関係改善を模索していた東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの意に反するものであったが、結局のところミハイル1世(コンスタンディヌーポリ総主教)とコンスタンディヌーポリ教会側のローマ教会への対抗措置を皇帝は抑える事は出来ず、フンベルトを中心とするローマ教会側の使節団の説得にも失敗した。
「東西教会の相互破門」の有効性
この「相互破門」が東西教会の分裂を確定したと言われる事が多いが、この破門は
- 西方教会側では事件の前にローマ教皇レオ9世が永眠しており、破門の主体がローマ教皇ではなく、使節フンベルトの独断だった面が極めて強いこと。
- 東方教会側では使節団であるフンベルト一行のみを破門したと認識していた事。
- あくまで本事件はローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教との相互破門であり、同じく正教会に属するアレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、イェルサレム総主教はこの事件には関わっておらず、「東西両教会の分裂」と言うのは飛躍し過ぎである。
以上の事情により、「決定的な教会分裂」と言える事件であるかどうか疑問であるだけでなく、相互破門自体が両教会全体に対して有効だったのかすらも怪しいものである。事実、この事件後も、ローマ教皇に新教皇が就任した後も、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教の交流は続いていた。
この「相互破門」は1960年代に入って正教会とカトリック教会の双方から解消されたが、東西教会の合同、フル・コミュニオンないし相互領聖(相互陪餐)は現在に至るまで未だに実現していないことも、1054年の「相互破門」についての事件性に対する過大評価に疑問符をつける根拠となる。後述するように、東西教会の分裂は1204年まで確定していなかったと正教会では捉えられている。