桂太郎 かつらたろう( A.D.1847〜A.D.1913)
山口出身、軍人・政治家。台湾総督・陸相を歴任。山県有朋の後継者として軍部・藩閥官僚勢力の維持に努める。明治後期、1901〜12年に西園寺公望と交代で3度組閣する。
桂太郎
山口出身、軍人・政治家。台湾総督・陸相を歴任。山県有朋の後継者として軍部・藩閥官僚勢力の維持に努める。明治後期、1901〜12年に西園寺公望 と交代で3度組閣する。
3度の首相の座を占めた軍人政治家
長州藩士。ドイツに留学後、陸軍のエリートコースを歩む。1901年首相となり、以後計三度組閣。その政権期に日英同盟 の締結、日露戦争、韓国併合、条約改正の完成と近代日本の画期となる大事件に直接関わったが、1913年、護憲運動の高まりの中で辞職(大正政変)。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日清戦争後の政府と政党
立憲政友会を基礎として1900年10月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎(1847〜1913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代が始まった。
元老
伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌(1842〜1916)の7人に、明治末期以降、桂太郎・西園寺公望の2人が加わった。公家出身の西園寺を除けばいずれも薩長両藩出身の藩閥政治家であり、明治時代に首相を経験した者は大隈重信を除いて、すべて元老に列せられた。元老については、憲法はもとよりそのほかの法令でも何ら明文上の規定はなかったが、彼らはいずれも明治国家の建設に大きな力があった長老級の有力政治家で、天皇の諮問に応じて重要な国務、とくに内閣更迭にあたって後継の首相を推薦したり、重要な外交問題に参画するなど、事実上、明治国家運営の最高指導者の役割を果たした。
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北清事変と日英同盟
ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府部内には、二つの意見が生じた。ーつは伊藤博文・井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認めるかわりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換によって、日露間の利害を調整しようとするものであった。これに対し、桂太郎首相、小村寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟 論を唱えた(第1次桂内閣)。勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず「光栄ある孤立」を保ってきたイギリスではあったが当時バルカンや東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。
協約の内容は、(1)清国・韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国及びイギリスの清国における政治的·経済的特殊利益を互いに擁護し、(2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、(3)さらに二国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる、というものであった。
このように日英同盟協約は日本が欧米列強と結んだ初めての対等条約で、これは日本にとって欧米先進諸列強への仲間入りを意味するものであった。こうして日本は国際政局に登場し、列強相互の対立を利用しつつ、対外的な勢力拡張を企てることになった。
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桂園時代
日露戦争を通じて、日本の国内政治にもいろいろな変化が現れた。日露戦争後の1906(明治39)年、第1次桂内閣は退陣し、第1次西園寺内閣が成立したが、これ以後、藩閥・官僚勢力や陸軍をバックとした桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁西園寺公望とが「情意投合」して交互に内閣を組織するというかたちが続き、いわゆる桂園時代が訪れた。山県有朋をはじめとする藩閥政治家の長老は元老として、各種の重要国務に参画し、後継首相の推薦などを通じて政界に隠然たる勢力をふるっていた 。