桜田門外の変 さくらだもんがいのへん A.D.1860〜
安政の大獄に憤激した尊攘派志士(水戸浪士17人・薩摩藩士1人)が、江戸城桜田門へ登城中の大老井伊直弼を暗殺した事件。これにより幕府の権威は失墜。その様子を浪士のひとり蓮田市五郎が、『桜田門外の変図』を描いた。
桜田門外の変
安政の大獄に憤激した尊攘派志士(水戸浪士17人・薩摩藩士1人)が、江戸城桜田門へ登城中の大老井伊直弼を暗殺した事件。これにより幕府の権威は失墜した。その様子を浪士のひとり蓮田市五郎が、『桜田門外の変図』として描いた。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
政局の転換
通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。通商条約の調印は、開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し、弾圧した。この安政の大獄では、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834〜59)・長州藩士の吉田松陰(1830〜59)・若狭小浜藩士の梅田雲浜(1815〜59)・頼山陽の子三樹三郎(1825〜59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。しかし、この厳しい弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。
この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。